戦後80年…山の手空襲 当時伝える書店と男性の思い
東京・表参道に立つ「山陽堂書店」。

○櫻井
「いろいろな種類の本が並んでいますね」

○櫻井
「書店はいつからあるんですか?」
○山陽堂書店 店主
遠山 秀子さん
「この場所でやりはじめたのは
昭和6年1931年からです」
当時は、いまの3倍ほどの広さだったという書店。

ここは80年前
「生」と「死」が交差する場所になっていました。
○山陽堂書店 店主
遠山 秀子さん
「1階は(人で)ぎゅうぎゅうだったって」

1945年5月25日夜から
26日にかけての「山の手空襲」では、
渋谷や赤坂、青山などが狙われました。

3月10日の東京大空襲より
多くの焼夷弾が投下され、
3242人が亡くなりました。
<東京・渋谷>

(1945年5月31日 撮影:石川光陽)
<東京駅>


(1945年5月26日 撮影:石川光陽)
<東京・赤坂>


(1945年5月27日 撮影:石川光陽)
東京の市街地を狙った
“とどめの空襲”とも言われ、

数少ないコンクリート造だったこの建物に
多くの人が逃げ込んだといいます。

山の手空襲を経験した泉宏さん95歳。
当時、書店から徒歩3分の場所に住んでいました。

○櫻井
「当時の状況を教えていただけますか?」
○山の手空襲を経験
泉 宏さん(95)
「(25日夜に)空襲警報が鳴って
僕とおやじが2人家にいて、
母と姉は先に逃げた方がいいと。
そのうち焼夷弾が落ちだしたんです。
とにかく逃げなきゃということで
逃げたんです」
火事を防ぐため家に残っていた
泉さんも、避難を決意。
そのとき窓の先に見える景色は…。

○山の手空襲を経験
泉宏さん(95)
「空襲はまわりじゅうが(焼けて)落ちちゃう。
だから火の中にいるような状況」
○櫻井
「火の中にいる…」
○山の手空襲を経験
泉 宏さん(95)
「この通りを逃げている間に
一緒に逃げている人がバタバタ転がるんですよ。
僕は向こうに逃げた。
翌日見たら
四つん這いになったまま死んでいる」
○櫻井
「なんで倒れるんですか?」
○山の手空襲を経験
泉宏さん(95)
「煙に巻かれるのと熱風で」
○櫻井
「熱風…」

近くにあった倉庫にどうにか逃げ込んだ泉さん。
夜が明けて家に戻ると、
姉とは再会できましたが…。
○山の手空襲を経験
泉宏さん(95)
「お袋がいない、おやじがいない。
捜しに行こうと、2人で捜しに出た」

すると、やけどを負った母親を発見。
山陽堂書店に逃げ込み、助かったといいます。
ただ父親は…。

○山の手空襲を経験
泉宏さん(95)
「真っ黒焦げの死体ばかり。山になっていた。
見つけなきゃいけない気持ちと
できれば見つからないでほしい気持ちがあるんですよ。
あの真っ黒の状態ですから
この状態で自分の親見たくないじゃないですか
その矛盾した気持ちで捜して歩いた」
結局父親は見つからず、
泉さんは空襲で亡くなったと考えているといいます。
「山の手空襲」から80年。
泉さんが、つらい戦争体験を伝え続けるワケは。

○山の手空襲を経験
泉宏さん(95)
「僕たちの年代が語り継がないと
戦争のばかばかしさ、怖さ
そういうことが風化してしまう。
だから僕たちはしゃべる義務があると
(知人に)言われたんです」
一方で…。

○山の手空襲を経験
泉宏さん(95)
「僕は戦争中の話や空襲の話をするけど、
これを理解しようとするのは無理だと思います。
ただこういうことを知ってほしい」
○櫻井
「理解できないと思うのは、
あまりに今から考えると悲惨すぎるからですか?」
○山の手空襲を経験
泉宏さん(95)
「想像してと言ったって無理なんですよ。
戦争は悲惨なんだと語り継いで
『だから戦争はしちゃいけない』と言うのは
僕らの務めだろうと思います」