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戦後80年…「沖縄慰霊の日」元石垣島民語る“疎開中の襲撃”

2025.06.23

沖縄戦から80年の
「慰霊の日」を迎えた6月23日、
櫻井キャスターとともに
石垣島にある慰霊碑を訪れたのは宮良幸宏さん86歳。


 
○宮良 幸宏さん(86)
「宮良洋子と読みまして当時3歳です。
 弟が宮良邦雄0歳です」
 

刻まれていたのは、
亡くなった妹と弟の名前でした。
 

沖縄戦が激しさを増すなか
台湾へ向かう疎開船に乗った宮良さん。
 

○櫻井
「ここから出航した港は見えますか?」
○宮良 幸宏さん(86)
「あちらですね。
 80年前とかなり変わりましたけど、
 夜、2隻のカツオ船を
 疎開船に仕立てて出ました」
 
80年前の6月、
石垣島から民間人180人を乗せて
出航した2隻の疎開船。
 

高齢者や子ども連れの親子が乗り込み、
宮良さん家族は、
当時39歳の母親・幸子さんが
宮良さんら幼い子ども7人を連れて船に…。
 

石垣島を出発し、
西表島を経由した2隻は
米軍に見つからないよう夜間に出発。
迂回しながら台湾に向かいました。
しかし…。
 

○宮良 幸宏さん(86)
「尖閣列島近海のコースを通って
 台湾に行くと。
 そこが安全らしいということでしたが
 真っ昼間でした。
(米軍の)B24偵察機に
 発見されて攻撃をうけたんです」
 

船を見つけた米軍機は、
機銃掃射を浴びせたといいます。
 

これは、そのとき
米軍が撮影した2隻の写真。
奥に見えるのが、
宮良さんたちが乗っていた
第一千早丸です。
 
○宮良 幸宏さん(86)
「超低空で機銃掃射してだーっと過ぎると
 方向変えて戻ってくる。
 ダダダダダっと撃ち込んで、
 容赦ない弾丸の雨でした」
 

○櫻井
「宮良さんも銃弾を受けたんですか?」
○宮良 幸宏さん(86)
「ええ。頭に昔の傷があります。
 顔中血だらけになって」
 

宮良さんは、
自身の戦争体験を残しておこうと、
当時の状況を絵にしていました。
 
○櫻井
「宮良さんが描く絵を見る限り
 海もきれいですし空も青々としている
 まさに今日のような
 天気だったんですか?」
○宮良 幸宏さん(86)
「そうですね。本当にきょうのような天気で。

 返り血が来て誰の血かわからないみたいに。
 それに子どもたちが泣き叫ぶ、阿鼻叫喚というか
 大変な状況だったんです」
 

この攻撃で、一隻は炎上し沈没。
宮良さんが乗った船は
エンジンが故障し、航行不能に。
 

米軍機が去ったあと、
船は近くにあった
尖閣諸島の「魚釣島」に漂着。
 

無人島で待っていたのは、
餓死寸前の極限状態の生活でした。
 
○宮良 幸宏さん(86)
「島の中どこに行っても
 何も食料がないですから、
 やわらかい雑草を集めて煮て食べる。
 死を待つばかりという感じですよ」
 
食料の確保は困難を極めました。
 
こうした生活がおよそ50日続き、
妹の洋子ちゃん3歳と
弟の邦雄ちゃん0歳は
衰弱していったといいます。

石垣島に帰って来られたのは、
終戦後の8月19日で、
このときに
家族全員が痩せこけて
髪の毛も抜けていたといいます。
 
幼いきょうだい2人は…。
 

○宮良 幸宏さん(86)
「妹と弟はやはり手遅れで
 何日かたって亡くなりました」
 
栄養失調で、2人は亡くなりました。
 

○櫻井
「お母さまは
 亡くなられた弟・妹を
 ずっと思っていたんですか?」
○宮良 幸宏さん(86)
「ずっと悲しんでいたようです。
 どんなにつらかったろうって
 泣いていました」
 
この遭難事件で
船に乗っていた180人のうち
少なくとも88人が
命を落としたと言われています。
 

あの戦争から80年。
いま石垣島を含む先島諸島に新たな計画が。
2025年3月、政府は有事を想定した
先島諸島の住民らの
避難計画を初めて公表しました。
 

石垣市など5市町村の
全住民およそ11万人と、
観光客らおよそ1万人の
あわせて12万人を
飛行機や船舶を使って
6日程度で
九州と山口へ避難させる計画です。
 
また、市内では動きが。
 

○zero
「ここが建設予定地ですか?」
○石垣市役所
 企画政策課 課長
「はい
 今は職員駐車場として使っていますが
 将来的には、この地下に
 特定臨時避難施設をつくる予定です」
 
政府は、
避難が間に合わなかった人たちのために
先島諸島に「地下シェルター」を
整備することを公表。
石垣市では、地下駐車場をつくり
シェルターとして活用するといいます。
 
この避難計画を
市民は
どう受け止めているのでしょうか。
 

○2歳の娘をもつ石垣市民(27)  
「子供の心配があって
 家族がちゃんと
 安全を保たれればいいなと思うが
 普通に怖いですね」
 
不安の声の一方で…。
 

○石垣市民(80)
「いいことじゃないかなと思います。
 石垣島は好きで住んでいますが、
 大変になったら(避難は)悪いと
 思わないのではないでしょうか」
 

宮良さんはいま
東京に住んでいますが
戦後生まれの弟は
妻と石垣島で暮らしています。
 
避難計画については。
 
○宮良 幸宏さん(86)
「疎開者が飛行機で何便も飛ぶから
 発砲しないでくださいとか
 ミサイルは禁止ですとか、
そういう風に
 平和的な戦争があるのでしょうか。
 国民たちも合意をもって
 政府と一緒にやらなければ
 同じ結果になるのではないかと
 私は、戦争体験者は心配するわけです」


 

○櫻井
宮良さんは、
ご自身で絵を描くことで、
「現実を伝えたい」と話していました。
絵には事実として何があったのか、
迫るものがありましたが、
宮良さんは、
「機銃掃射の音、逃げる人の叫ぶ声、
 焦げた臭い、血の生臭さ、
 それらは絵では伝えきれないんだ」
とも話していました。
 
そうして深く刻まれた戦争による心の傷は、
頭に負った傷が癒えた後も、残ったままだと
話していたのが印象的でした。
 
○藤井
そうした経験を受け継いでいく、
課題というものは取材で感じましたか?

○櫻井
石垣市にある八重山平和祈念館の方に
話を聞きましたが、
「沖縄本島と比べて戦時中の写真や
映像が多く残っていないので、
誰かが語り継いでいかないと、
なかったことになってしまう」
という危機感を持っていました。
 
宮良さんの言う通り、
絵や言葉では
伝えきれない部分もありますが、
それでも私たちが
次につなげていかないといけない、
と改めて感じました。
 
そして、こうした戦争による
民間人の犠牲は
過去のものだけではなく、
今も世界の各地で繰り返されています。
 
「子どもたちを殺して
戦況に何の影響があるのか」と語った
宮良さんの言葉が、重くのしかかります。

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