◆ 大村一さん
1978年長野県生まれ。中学時代は当初バレーボール部に所属していたが、2年時に陸上競技部が創部し、陸上を始める。田川高校では5000m、3000m障害でインターハイに出場。法政大学に進み、1年目は予選敗退に終わったものの、箱根駅伝に3回出場。2年時の第75回大会は9区を担い繰り上げスタートの憂き目に遭う。4年時の第77回大会5区では、強風に見舞われるなか三つ巴の先頭争いを演じた。大学卒業後は塩尻市役所に勤務し、今も一般ランナーとして走り続けている。


 箱根駅伝では最下位も先頭も走りました。私のような選手が、何年経っても誰かの印象に残っているというのは、箱根駅伝だからこそ、でしょうね。私自身は、ただ一生懸命走っただけなんですけど……。箱根駅伝は本当に不思議なスポーツだなといつも思います。

 お正月には長野県の選抜合宿があったので、箱根駅伝は大学に入るまでほとんど見たことがなかったんです。お正月の風物詩っていうぐらいの認識でした。高校卒業後も陸上競技を続けたいと思っていたものの、特に関東の大学を志望していたわけではありませんでした。そんな時に、高校の顧問の先生から「長距離を本当に極めたいなら関東の大学に行かなきゃ強くなれない。箱根駅伝があるからね」と言われて、初めて箱根駅伝を意識しました。
 ただ、私は“駅伝”というよりも“陸上競技”をやりたいと考えていたので、陸上競技の強豪である法政大学への進学を決めました。ちなみに、同級生には400mハードルの為末大がいました。

 私が入学する前年に法大は箱根駅伝でシード権を落としていました。私は1年目から予選会のメンバーに選ばれましたが、チームは予選落ちに終わりました。寮で留守番していた同期が言うには、OBからの苦情などで電話が鳴り止まなかったそうです。それほど箱根駅伝を逃した反響は大きかった。箱根駅伝当日は走路員を務めましたが、“これは出る大会だ”っていう意識を強く持ちました。
 2年生の予選会はギリギリ6位で通過(当時は予選会から6校が本選に出場できた)。6番目に「第6位、法政大学」と呼ばれた瞬間は絶対に忘れられません。たぶん人生で一番の喜びではないでしょうか。

 初めての箱根駅伝(第75回大会)では9区を任されました。今振り返ると、中継所の独特の雰囲気にだいぶ浮ついていたように思います。いつでも出発できるようにスタンバイしていたのですが、なかなか前の区の走者が来ません。ようやく襷を受けて走り出したものの、自分がいったい何番でスタートしたのか分からないまま走っていました。

 とにかく前を追おうと思っていたら、序盤で帝京大学に抜かれてしまいました。“まだ前半だ。抜かれちゃったけど、下り坂だしな”などと考えながら走っていました。
 だんだんと前方に中央学院大学の選手が見えてきたのでそこを目指しましたが、なかなか差が詰まりません。一方で、“後ろから選手が来ないな”と思って1回だけ振り返ると、救急車が見えました。それでようやく“自分は最下位を走っているのかも…”と考えるようになりました。そんな状態だったので、まさか自分が繰り上げスタートになるとは思ってもいませんでした。
 鶴見中継所への側道に入る直前でタスキを外し“1秒でも早く”と思ってラストスパートをかけていると、アンカーの先輩が中央学院大の選手と共に走り出していくのが見えました。ピストルの音は聞こえませんでしたし、“冗談なんじゃないか”などと、わずかの間にいろんなことを考えました。

 でも、すぐにそれが現実であることを思い知らされます。“なんてことをやってしまったんだ”という思いに駆られ、走り終わった後はしばらく何も考えられませんでした。
 箱根駅伝は、走ったメンバーだけでなく、それを支えてくれる仲間の存在がとても大切だと思っています。それが襷の重みなんですよね。駅伝は、襷をつないでゴールまで辿りついて初めて1つのストーリーができあがるのに、その物語を違うエンディングにしてしまった。すごく申し訳ない気持ちでいっぱいでした。あの時の思いはあまりにもつらく、今でも思い出すと心が痛み、涙が浮かびます。
 中継所でサポートしてくれた4年生の先輩が「みんな待っているから」と背中を叩いてくれて大手町に向かうと、仲間たちは普段通りに接してくれました。そんなチームメイトたちに救われる思いがしました。

 3年、4年の箱根駅伝は5区を走りました。
 3年時は5区の法大記録を更新できたので決して悪い走りではなかったのですが、区間賞を獲った藤原正和選手(中央大学)と柴田真一選手(東海大学)の2人に抜かれてしまいました。チームも、またしてもシード権に届かず。“自分がもうちょっと頑張っていれば”と悔しさを募らせました。

 4年目の第77回大会は、2区の徳本一善(現・駿河台大学監督)で先頭に立つと、その後もトップをキープしました。とはいえ、前の年も序盤で先頭を走りながらも4区で順位を落としていたので、おそらく今回もそうなるだろうと思いながらウォーミングアップをしていました。ところが、控室に戻って後輩に「何番まで落ちた?」と聞いたら「まだトップです」と返ってきます。「まだ先頭なんだ!」と驚きつつも、相手が誰であろうと、絶対に抜かれないレースをしようと心に決めました。

 5区のコースは熟知していて、今でも映像を見ればどの地点かが分かるほどです。テレビ中継では「(序盤の)ペースが速い」と言われていましたが、区間賞を獲るつもりでペースを設定していたので、私としては決して速いわけではありませんでした。
 しかし、まさか箱根山中であれほどものすごい向かい風が吹いているとは…。前に進めず、その場で足踏みしているような感覚だったのは今でも覚えています。とにかく“前に進まなきゃ”と思ってはいるのですが、前に進んでいる実感がありませんでした。
 最高点を過ぎて下りに入ったところで、前回8区区間賞の順大・奥田真一郎選手に追いつかれましたが、“相手だってきついだろう。やるなら今しかない”と思って、息つく間もなく気持ちを切り替えてスパートを仕掛けました。後ろを振り返らなかったので、どれだけ差が付いたのか分からなかったのですが、呼吸や足音から離れていったのが分かりました。
 ただ、これで私の体力も尽きました。再び抜かれてしまったらもう抜き返すのは無理だな、と思いながら、なんとか脚を動かして逃げていました。

 下り終わると、また突風が吹き付けてきます。箱根神社の大鳥居をくぐった時にぱっと見えたのは、青いユニフォームではなく、白。“また藤原選手に抜かれるのか…”と思いながらも、為す術はありませんでした。その後、奥田選手に抜き返された時にも何の抵抗もできませんでした。
 結局、2人に抜かれ往路を3位で終えました。走り終えた後は、襷を繋げなかった時と同じくらい悔しかったです。でも、周りからは「よくやった」と声をかけられ不思議な思いがしました。
 法大は復路も粘り、総合4位に入り、5年ぶりにシード権を獲得しました。贅沢を言えば、3位に入りたかったですけど、やっとシード権を手にすることができて安堵感でいっぱいでした。

 いろんな人に「スパートをかけるタイミングが早かったのでは」とか「最初ペースを抑えればよかったんじゃない」などと言われましたが、私としては、自分で選択すべき選択をして、全部を出し切った結果でした。もう一度走ったとしても、同じレースをすると思います。自分自身の選択には何の後悔もありません。
 それでも、あの時の悔しさやいろんな思いがあるからこそ、私は今でも走り続けています。4年間の結果が違うものだったら、もしかしたら走ることを止めていたのでは…。走ることによって、いろんな人との関わりができ、私の世界は広がったと思っています。