◆ 大八木弘明さん
福島県出身。会津工業高校から小森印刷(現・小森コーポレーション)に進み、その後駒澤大学に入学。箱根駅伝を3回走り2度の区間賞を獲得した。卒業後は実業団・ヤクルトを経て95年より駒澤大学コーチ、04年より監督。コーチ就任から2022年度まで三大駅伝優勝27回、そのうち箱根駅伝は8回優勝。22年3月に監督を退任し、4月から駒澤大学陸上部総監督。


私と箱根駅伝との関わりは、あこがれからでした。福島で中学から陸上を始めて、同郷の先輩たちから箱根駅伝の話を聞いて、ゆくゆくは自分も大学に行って走りたいなと思っていたんです。ですが、会津工業高校時代に疲労骨折をして右ひざを手術することになり、3年間ほとんど走れませんでした。「陸上で大学に行くのは難しいのかな」と思いましたが、やっぱり陸上は好きだったので、陸上部の顧問の先生にお願いして実業団の小森印刷(現・小森コーポレーション)に入ることができました。

入社後は2年目ぐらいからエースになりました。4年目に全日本実業団駅伝の最長区間(23.2km)を走り、その年にあったモスクワオリンピック5000m代表の森口達也さんに次ぐ区間3番でした。「これだったら自分も、1人で練習して大学でもやっていけるかな」と思って、川崎市役所に転職し、駒澤大学の2部に入学する決断をしました。

駒澤を選んだのは、川崎市役所から一番近くて箱根駅伝に出られる大学、という理由です。当時は箱根駅伝には28歳以下という年齢制限がありました。入学時にもう24歳だったので4年目は出られないとわかっていましたが、走りたいと思っていました。年齢が上なこともあって学生とはレベルが違い、全部一緒の練習はできませんでしたけど、距離走は引っ張ったりしましたね。

1年の時は5区を走って区間賞、2年の時は2区を走りましたが、貧血もあって区間5番でした。はじめは「区間賞をとりたい」など自分のことばかりを考えていましたが、次第に「なんとかチームを上位に押し上げたい」「チームのために何かしたい」と思うようになったんです。それもあり、3年の時にはプレイングコーチみたいな形になって、駒澤大の練習のスケジュールを書き始めました。27歳の時に始めて、去年までずっと私が書いてたことになりますね(笑)。3年の時は2区で区間賞を獲得して、駒澤史上最高の4位になれてうれしかったですね。

卒業後はいずれ指導者になりたいという気持ちで、お誘いのあったヤクルトに入りました。2年目ぐらいからはプレイングコーチのような形になり、6年いたうちの後半の3年は専任コーチになっていました。

私が卒業してから駒澤大学はだんだん下降気味になり、箱根駅伝の予選会を通過するのも危なくなってきていました。95年に森本葵監督と高岡公ヘッドコーチに「コーチになってチームの面倒を見てくれないか」と打診されました。正直かなり迷いましたね。引き受けた年にもし予選落ちして、1967年から続いている連続出場を途切れさせたら大変だ!と思いましてね。でも「今来て、現場を立て直してほしいんだ」という強い要望を受けて、「やるしかない」と腹を決めて引き受けました。

大学に戻って、まず当たり前のことを当たり前に、規則正しい生活をしてルールを守るということを徹底的にやりましたね。あとは女房にお願いして、まずは最初の寮に入れている20人の食事を、栄養を考えて作ってもらうようにしました。

そこから少しずつ良くなっているなという実感はありました。ちょうど私が駒澤に来たのと同じタイミングで藤田(敦史・現監督)が入学したのも巡り合わせでした。彼の存在があって、1つ下の前田(康弘・國學院大学監督)や大西(雄三)、西田(隆維)たちが強くなっていきましたね。本当は藤田が4年の時に箱根駅伝で優勝したいと思っていたんですけど、まだまだ若かったです。レースの持っていき方、選手の配置の仕方などの考えが甘かったところがありました。最後で逆転負けして2番になっちゃいましたので。

藤田が卒業して次の年に新しい寮ができて、そこで全員が揃って食事もできるようになりました。前の年の反省を生かして76回大会で優勝できて、やっぱり嬉しかったですね。そのあとは78回大会から81回大会まで4連覇も達成したので、当時の「箱根の勝ち方」というのがわかってきました。

2006年に宇賀地強(現・コニカミノルタコーチ)、高林(祐介・現駒澤大コーチ)や深津(卓也・現旭化成コーチ)たち、インターハイ上位で5000m13分台のタイムを持ち、トラックで世界を狙える選手たちが入学してきました。

マラソンで藤田や西田を世界に出しましたし、私も「箱根だけでは」という思いもあり、箱根と世界のトラック、両方勝たせるためにはどうしたらいいのかと試行錯誤しながらやっていくようになりました。だからその頃は、全日本大学駅伝は勝てたけど、長い距離に対応するチームをうまく作れなかったなと思います。箱根駅伝は84回(07年)に勝ってから97回(20年)まで13年勝てませんでしたからね。

ここ3年ぐらい、田澤(廉)と世界を目指しながらも、箱根駅伝を勝てるチームを作れるようになって、ようやく「両方できるんだ」という自信に変わり始めました。特に去年のチームは、2人ぐらいエース格がいなくても優勝できたということで、理想的でしたね。やっぱり10月から三大駅伝優勝を目指して、ワンチームとして結束できるかどうか。同じペースで走れなくても、全員が同じ距離を踏んで、しっかり練習を詰んでいけるかが大事かなと思います。

あこがれの大会だった箱根駅伝でしたが、指導者になってからは、「この大会で選手たちの人生が変わる可能性もある」と考えるようになりました。関わる人の人生にとって重要な大会であるなというのを今つくづく感じています。

次の大会は100回の記念大会。そこに出る選手たちには、目一杯頑張ってもらいたいなと思いますね。私も100回大会まで監督を続けたいという気持ちもありました。ですが「百里の道も九十九里をもって半ばとする」という中国の言葉の通り、ちょうど65歳にもなるし、自分のけじめとしてこのタイミングで退こう、チームを藤田に任せよう、と1年以上前から決めていました。

自分の人生の第一章は、駒澤を常勝軍団にしていこうとずっと尽くしてきました。監督を退いての第二章は、世界陸上やオリンピックでメダルに手が届く選手を作ってあげたいなと思って取り組んでいます。ワクワクして、楽しく過ごさせてもらっていますよ。