◆ 金哲彦さん
1964年2月1日、福岡県出身。中学から陸上を本格的に始め、八幡大附属高校(現・九州国際大附属高校)から早稲田大学に進学。箱根駅伝では4年連続で5区・山上りで活躍し、2度の総合優勝に貢献した。3年時には当時の区間新記録を打ち立てている。卒業後は、リクルートに入社し、リクルートランニングクラブを創設し、マラソンで活躍した。指導者としても、同クラブのコーチとして有森裕子をはじめオリンピック選手を指導した。2002年NPO法人ニッポンランナーズを創設。現在はプロコーチとして一般ランナーやプロアスリートを指導。駅伝やマラソンの解説者としても活躍している。
僕の中学、高校時代はまだテレビ中継が始まっていません。高校(八幡大学附属高・福岡)の監督だった酒井寛先生が、日体大OBで箱根駅伝で6区を走っていて、先生からは「箱根駅伝はすごいぞ」とよく聞かされていました。ですが、箱根駅伝の存在を知っていても、そこに憧れはありませんでしたし、自分が箱根の選手になるとも思ってもいませんでした。
ただ、福岡国際マラソンで“W”のユニフォームを着た瀬古利彦さんが活躍する姿を見て、瀬古さんへの強い憧れがありました。その憧れから早稲田を志望しました。当時の早稲田は推薦制度がなく、同級生の半分近くが浪人して入っていましたが、僕は幸いにも現役で入学できました。生の瀬古さんや中村清監督に出会って、舞い上がるような気持ちでした。
しかしながら、ちょうど早稲田が強くなっていく時代で、1年生にも容赦ありませんでした。最初に集められた時に「今から15分後に5000mのタイムトライアルをやる」と言われたのは忘れられません。同期は中長距離合わせて7人くらい。国体チャンピオンもいれば、インターハイで入賞した者もいました。でも、半分は浪人していたこともあって、僕はそのタイムトライアルで1番になりました。
6月にはいきなり「今日は20000mのトライアルをやる」と言われ、未知の距離に挑んだこともありました。もうむちゃくちゃですよ(笑)。今にして思えば、こうやって中村監督は適性を見ていたのだと思いますが。
10月か11月ぐらいには、中村監督に呼ばれて「上りは得意か?」と聞かれました。「苦手」とも言えず「はい」と答えるしかなかったのですが(笑)。
僕は4年連続で箱根の山を上りました。
初めての箱根駅伝は、わけが分からないままに走って区間2位。優勝候補に上がっていた順大と大東大の2校を抜きました。順大を抜いた時に、ジープに乗った順大の澤木啓祐監督が「こんな聞いたこともない選手が抜かれても心配するな」と声を掛けていて、それを聞いて“負けてたまるか”という気持ちになりましたね。
2年時の第60回大会(1984年)で早稲田は30年ぶりの総合優勝を成し遂げました。エースの坂口泰さんをはじめ、先輩方も力を付けていたので、狙いにいった優勝でした。
僕は秋に貧血になった影響もあり、1年時よりも20秒以上遅かった。区間2位だったので悪くはなかったのですが、中村監督から褒められることはありませんでした。チームは優勝で盛り上がっていましたが、僕自身も、まだまだだなと感じていました。ちなみに、この時に区間賞を獲ったのが、駒大の大八木弘明さん(現・総監督)でした。
第60回大会の総合優勝を機に中村監督は勇退し、同年のロサンゼルス五輪に向けてエスビー食品の監督に専念することになりました。
僕も引き続き中村監督に指導を受けることになっていたのですが、結局、決別することになりました。在日朝鮮人だった僕は、中村監督から韓国に国籍を変えてマラソンで五輪を目指すことを提案されたのですが、熟考した末、それを受け入れませんでした。
後任の鈴木重晴監督は自主性を重んじる方針でした。それまでの早稲田方式の練習を踏襲しながら、学生主体で取り組みました。僕は、全体練習の後に自分の練習をプラスしていました。そういった努力もあって、30kmでは関東インカレも日本インカレも優勝し、箱根駅伝では5区で区間新記録を樹立し、チームも連覇を果たしました。
“中村監督に見てもらえなくなったから弱くなった”と思われたくなかった。そういう意地がありました。
最後の箱根駅伝は3連覇ならず、総合2位でした。
でも、最初から勝つことが難しいのは分かっていました。早稲田の受験制度が変わり、入学するのがいっそう難しくなり、僕より下の年代の長距離部員は1浪、2浪の選手ばかり。全学年で15人くらいしかいません。明らかに選手層が薄かったからです。
ただ、僕らの代は、僕の他にも、川越学、田原貴之がインカレで上位入賞していました。エースもいれば、山上りもいる。1区・田原、2区・川越、5区・僕と、往路につぎ込んで、往路はぶっちぎりで勝つことができました。
僕自身は、前年の区間記録に2秒及びませんでしたが、区間2位に2分42秒の大差を付けて2年連続の区間賞を獲得しました。
復路では、9区までの選手が頑張ってくれて、アンカーにはトップでタスキが渡りました。2位の順大とは約2分の差がありました。しかし、最終区で逆転され、さらに2分41秒もの大差を付けられて2位でレースを終えました。
でも、順大に抜かれるのは覚悟の上のオーダーでした。10区に起用した4年の藤原良典はもともと中距離が専門で、20kmの走力は我々とは大きな差がありましたから。でも、もう彼しかいなかった。だから、抜かれるのは分かった上で、彼を説得し、走ってもらいました。
3連覇を逃したのは悔しいけれど、予定通りの成績だったと思います。それぐらいの総力戦でした。
大学4年間は、もちろん箱根駅伝の優勝を目指したこともそうですが、中村監督との関係性がモチベーションの軸になっていました。僕にとっては人生を変えてくれた恩師でした。
3年の時は決別があり、それで弱くなったと思われたくなかった。4年の時は、5月に中村監督が亡くなり、恩返しをしたいという一心で走っていました。
九州の無名の選手だった僕は、中村監督の存在があって、大学4年間でこんなにも高いステージで活躍することができました。
また、僕らが比較されるのはいつも瀬古さんでした。「瀬古は今オリンピックの金メダルを目指している。それに比べたら、お前らのやっていることなんか遊びみたいなもんだ」などと言われたら、箱根駅伝で区間賞をとっても、総合優勝しても、天狗になることもなければ、燃え尽きることもありませんでした。
何十年も経ってからの話ですが、当時マネージャーだった先輩からこんな話を聞かされました。中村監督は、1年の春の段階で僕の走る姿を見て「見ろ。木下という奴の命がけの走り。いいか、早稲田の山の歴史が変わるぞ」とおっしゃっていたそうです。それを聞いた時には、背筋がゾクっとしました。そんな早い段階で、中村監督は僕の山上りでの活躍を予言していたんですね。
箱根駅伝には、選手としてだけでなく、その後は解説者としても関わっています。
都道府県駅伝からオリンピック、世界選手権まで、いろんなカテゴリーで解説をしているので、小さい時から選手の成長をずっと見てきています。その過程で、箱根駅伝で活躍する彼らの走りを見るのは感慨深い。それに、無名の選手がポンと出てくることがあるのも面白いですね。
100回も続く箱根駅伝が日本の長距離界のベースになっていることは間違いない。また、箱根駅伝の人気で、長距離走を始める子どもが増えているようにも思います。裾野が広がるのは我々にとって大歓迎すべきことです。
(写真:日刊スポーツ/アフロ)