◆ 武井隆次さん
1971年東京都生まれ。中学から陸上を始め、國學院久我山高校時代にはインターハイで1500mと5000mの二冠。また、5000mで高校生で初めて13分台をマークし、当時の高校記録(13分57秒90)を打ち立てた。早稲田大学に進学し、同期の櫛部静二(現・城西大学監督)、花田勝彦(現・早稲田大学駅伝監督)と共に“三羽烏”として注目を集める。箱根駅伝には4年連続で出場。3年時には総合優勝を果たしている。また、1、2年時は1区で、3年時は7区で区間新記録を樹立。4年時は区間記録更新はならなかったが、4年連続区間賞となる4区区間賞に輝いた。大学卒業後はエスビー食品で競技を続け、2002年の釜山アジア大会ではマラソンで銅メダルを獲得した。引退後は、エスビー食品コーチ、監督、早稲田実業高校コーチなどを歴任。現在は、したまちAC総監督としてジュニア世代や一般ランナーの指導にあたっている。


 高校時代に5000mの高校記録を樹立し(高校生で初めて13分台をマークした)、将来はトラックを主戦場にしようと思っていました。当時はフォームも良くなかったですから(笑)、マラソンランナーになろうとは思っていませんでした。だから、箱根駅伝に対しても“箱根で活躍するんだ”などといった、特別な思い入れはありませんでした。もちろん早稲田大学に入るからには、チームの力になれればと思っていましたが。
 でも、大学に入る前に、高校の恩師の有坂好司先生に、箱根駅伝の2区を見に連れていってもらったことがありました。早稲田の2区・池田克美さんに声援を送った思い出があります。早稲田に行くことが決まっていたので、何か参考になればと思って連れていってくれたのでしょう。そんな恩師の思いは感じていました。

 早稲田大学の同期に櫛部静二君(現・城西大学監督)、花田勝彦君(現・早稲田大学駅伝監督)がおり、僕ら3人は“三羽烏”と呼ばれていました。櫛部君にはトラックでは勝てても、ロードの20kmでは全く敵いませんでした。一方、花田君は当初、僕と櫛部君と比べると、まだそんなに力がありませんでした。だから、「なんでお前が三羽烏に入っているんだよ」などと冗談で言っていました(笑)。結果的には、花田君はオリンピックに2回も出ており、3人のうちで一番いい成績を残すことになるのですが……。

 僕らが入学する前の早稲田はシード権争いをしており、優勝を狙えるチームではありませんでした。優勝を意識するようになったのは、僕らが上級生になってからです。当時は選手層が薄かったこともあり、僕ら3人は1年目から箱根駅伝で序盤の区間に並べられました。チームに勢いをもたらす意味合いもあったのだと思います。
 僕は、1、2年時は1区で、3年時は7区で区間新記録を樹立しています。ただ、1、2年時の1区の記録は1時間3分台ですから、決して速くはないんですよね。現に、3年時には櫛部君が一気に僕の記録を1分以上更新しましたし、さらに4年時には2学年後輩の渡辺康幸君が僕より2分も速く走っています。つまり、会心の走りというわけではありませんでした。

 そういう意味でも、僕のなかで誇れる区間新記録というのは3年時の7区だけです。でも、その7区での走りも、実は自分ではずっと「失敗した」と思い続けていました。
 3年時の第69回大会(1993年)は、渡辺君の入学や花田君の覚醒によって戦力が充実していたこともあり、僕はジョーカー的な役割として復路に回ることになりました。夏に踵をケガし走れない期間があったことも理由の1つです。
(早大は往路優勝したが、6区で山梨学院大学に逆転され、武井さんにはトップと9秒差の2位でタスキが渡った)
 優勝を狙える位置にいるわけですから、ブレーキするわけにはいきません。7区は最初の3kmが下り基調なので、飛ばして入る選手が多いのですが、僕は調子に乗って飛ばしすぎないようにと、ペースを抑えて慎重に入りました(それでも、1kmを前に先頭を奪い返した)。しかし、あれだけ抑えたのに、10km過ぎからきつくなり、景色が歪んで見え始めたのです。結果的には、最後までバテずに走り切れました。でも、区間新記録を出すことができたのは、当時は7区にエース級が起用されることがなかったからだと思っていました。予定通りの仕事は果たし優勝に貢献できましたが、“失敗した”という思いはその後も残りました。(武井さんは従来の区間記録を1分51秒更新し、山梨学院大には3分超の大差を付けて総合優勝を決定づけた。)

 あの走りが失敗ではなかったと思えたのは、15年後のこと。東海大の佐藤悠基選手(現・SGホールディングス)が僕の区間記録を更新した時でした。
 10000m27分台の記録を持つ佐藤選手の力からすれば、もっと大幅に更新してもおかしくはない。それなのに、僕の記録を18秒上回ったに過ぎません。ということは、僕の走りも悪くはなかったんだな、と思うことができました。
 毎年コマーシャルに入るときに、7区の区間記録保持者として僕の映像が流れるのが当たり前になっていたので、自分の記録が破られるのは寂しくもありましたが、ようやく気持ちが晴れました。

 大学4年間の箱根駅伝で最も印象深いのは、優勝した3年時よりも、敗れた4年時のほうが大きいです。僕はキャプテンを務めていましたから。
前年の優勝メンバーが7人残っていました。僕ら三羽烏は最上級生になり、3年に小林正幹君、2年に渡辺君、さらにルーキーには小林雅幸君と、各学年に力のある選手がいました。当然、箱根駅伝では連覇が期待されていました。
 “俺が2区を走るんだ”という気概を持った選手たちは練習から激しく競り合っていて、20kmのタイムトライアルでは59分台前半で走っていました。それぐらい力がありました。一方で、スロースターターの僕は、坐骨神経痛で苦しんでいて61分かかっていました。コーチの瀬古利彦さんからは「お前じゃなかったら、とっくにメンバーから外しているからな」と怒られたほどです。

 これだけのメンバーがそろいながらも優勝を逃したのは、部内の争いが激化するばかりに、調子のピークがずれてしまったからでした。箱根を前にチームの調子が明らかに落ちていたのです。
 それに、前年度に優勝したことでもちろん重圧を感じることもありましたが、それ以上に、僕たちには過信があった。主力選手の複数人がいたので、誰かが調子を落としていても大丈夫だろうという油断があったのだと思います。
 そういった様子が分かっていたのに、僕自身は走れていなかった後ろめたさもあって、キャプテンでありながらも、チームをコントロールできずにいました。本来は締めるべきところを締めなければいけないのに、それができませんでした。それが綻びとなって、最後の箱根駅伝に出てしまいました。
 起承転結の“起”“承”で順調にチームは力を付け、“転”で箱根駅伝で優勝したのに、“結”で優勝を逃すというオチを付けてしまいました。最後の年にそういった悔しさを残しましたが、個性が強いメンバーばかりでも、チームで結果を目指すのも良いものだなと思っています。