◆ 渡辺康幸さん
1973年千葉県生まれ。市立船橋高校時代は都大路に3年連続出場、2、3年で国体少年A
10000m2連覇、3年でインターハイ1500m、5000mの2種目を制した。早稲田大学に進み、箱根駅伝には4年連続出場。1年目は総合優勝を経験。2年目は1区で、3年目は2区で区間新記録を更新した。4年目には世界陸上10000mに出場。卒業後はエスビー食品で競技を続け、2002年に引退。03年から早稲田大学競走部コーチ、04年から監督。2010年度には大学駅伝三冠を達成した。15年からは住友電工陸上部監督。翌年より箱根駅伝中継車1号車の解説も務める。


祖父も父も陸上をやっていたので、小学校の時に走り始めたのが最初です。といっても小学校の時は野球やサッカーをメインにやっていました。学内のマラソン大会では6年連続で1位。走るのは好きだし楽しいなと思い、中学校から陸上部に入って本格的に走り始めました。千葉県大会の800mで3位となって、市立船橋高校に声をかけてもらい進学することになりました。

僕が中2の時に箱根駅伝の日本テレビでの放送が始まったと記憶しています。当時は順大や日体大が強く、大東大の3連覇もありましたね。山梨学院大の(ジョセフ・)オツオリ選手の走りには衝撃を受けたのを覚えています。オツオリ選手と順大の本川一美選手の対決もすごかった。興奮しながら見ていました。

当時は箱根駅伝ブームに火がつきかけた頃で、高校3年ぐらいから自分も走りたいなと思うようになりました。高校で実績を出したので、たくさんの大学や実業団からお誘いいただきました。その中でも瀬古利彦さんの「箱根から世界へ」という考えに一番共感して、早稲田大学に進むことを決めました。

当時の早稲田は、進んだからには春夏のトラックシーズンは海外に武者修行に出て自分の立ち位置を知り、秋冬は駅伝で頑張る、という流れが当然で、箱根はある意味通過点のような位置付けでした。

僕が1年生のときの69回大会では、2学年上に櫛部静二さん、武井隆次さん、花田勝彦さんの「三羽烏」がいて、なにより4年生がしっかりとまとまっていました。「優勝するぞ」という雰囲気の中、2区を任されました。僕は常に「任された区間を全力で走る」という気持ちでいたので、「しっかり結果を出さないと」と思っていました。

初めての2区は単独走になって、きつかったですね。なんとなくふわふわして、23kmを淡々と走ってしまい、力を出しきれないまま終わってしまったなという感覚がありました。求められているものはもっと上だと思ったので、個人としては納得できない結果でした(1時間8分48秒で区間2位)。チームが優勝したことは、もちろんすごく嬉しかったです。

2年生のときは1区を1時間1分13秒で走り、区間記録を更新できました。強い先輩も残っていたので、優勝しなければいけない年でした。ただ山梨学院さんもすごく強くて、全力でぶつかったけど負けてしまいました。

個人的に一番印象深かったのは、3年生の時、2区で1時間6分48秒の区間新記録(当時)を出した時のことです。会心の走りと言ってもいいと思います。前半はやや早めに入りますが、ギアを入れすぎないで10kmまで走る。体力を残しておいて、権太坂でアクセルを踏み込んで、下りでスピードを緩めずに休む。そのあと18kmからまたエンジンをかけるんです。アクセルとブレーキをうまく踏んでいくイメージですね。1年の時はアクセルを踏みっぱなしだったので、うまくいかなかったんだと思います。僕は時計をつけて走るんですが、走っている間はほとんど見ないんですよ。感覚を大事に、本当に走りに集中している時にいい結果が出ると思っています。あの時もそうでした。

4年の時も2区を走りましたが、この時は箱根駅伝後の2月にマラソンを予定していて、練習がかなり積めていました。調子が良すぎて「前半で突っ込んでもいいかも」と過信してしまいました。結局そのせいもあって、後半が伸びなかったですね(1時間6分54秒で区間賞)。無心で走っていれば、1時間6分30秒ぐらいでは走れたと思います。どうしても同じことをやると、欲が出てきてしまうんだなと思いましたね。

レースでは山梨学院大のステファン・マヤカ選手(真也加ステファン、現・桜美林大学監督)のことをかなり意識していました。高校時代からいい走りをするのは知っていたので、一緒に走ったらいつも勝ちたいなと。でも実は同じ区間を走っていますが、ロードで一緒に走ったことは一度もないんです。走りたかったですね。もし同タイムで一緒にスタートしていたら、すごいレースになっただろうなと思います。

2002年9月に引退し、次に何をしたらいいんだろうと悶々としている時に、母校のコーチの話をいただいて引き受けました。04年の80回大会では早大は16位。初めは、弱さに驚きました(苦笑)。当時は國學院大、帝京大、城西大などが強化を始めた頃で、そういった新興大学に飲み込まれた形になっていました。

04年の4月から監督になりましたが、大学が07年の創立125周年に向けて競走部を後押ししてくれました。さらに合宿所も新しくなり、環境が整ったのも大きかったです。そこから徐々にまた戦う形になれていきましたね。

05年に入学した竹澤健介くんは、僕がかなり何度も勧誘に行って入学を決めてくれました。彼は本当に自立した選手で、僕が何か言ったことは実はほとんどないんですよ。ただ彼がいた時も、エースに頼るチームになってしまい、勝ち切れませんでした。

87回大会で三冠を達成した時は、4年生に本当にまとまりがあって、危機感を持っていました。力のある3年生がいて、大迫傑くんが1年生で入学してきてくれました。そう考えると、僕が1年生で優勝をした時のチームに似ていますね。柏原(竜二)くんがいる東洋大学は強かったですが、21秒差で勝つことができ、本当に嬉しかったです。胴上げされて、本当に最高の景色を見ることができました。選手として勝つより、指導者として勝つ方が何倍も嬉しいです。

2016年からは解説者として、箱根駅伝中継の1号車に乗らせてもらっています。寒いし、ずっと動けないし、体はガチガチになるし…で、辛いことを挙げたらキリがありませんが、それも関係なくなるぐらい楽しませてもらっています。一番いい席で勝負を見られるんですから、こんなに贅沢なことはありません。選手はみんな一生懸命走っているので、できるだけ走っている選手を称えたいと思って話しています。こうして選手、指導者、解説者として箱根駅伝に関わらせてもらって、感謝しかないです。本当にありがたいなと思います。

間近に迫った100回大会。沿道の皆さんは、選手の後押しをぜひお願いします。そしてみんな一生懸命走っていますので、どうかあたたかく見守ってほしいなと思いますね。