◆ 相澤晃さん
1997年福島県生まれ。小学生の頃から円谷ランナーズで競技に取り組み、長沼中では3000mで全国大会に出場。学法石川高時代はインターハイに出場できなかったが、全国高校駅伝には3年連続で出場した。東洋大に進学し、学生トップランナーに成長。箱根駅伝では3年時に4区で、4年時に2区で区間新記録を打ち立て、2区では初めて1時間5分台の大台に突入した。大学4年時にはユニバーシアードのハーフマラソンで金メダルに輝いている。実業団の旭化成に進み、2020年の日本選手権では10000mで27分18秒75の日本記録を樹立し、東京オリンピック出場を果たした。


 小学生の頃は、1月2日、3日は書き初めをしながら箱根駅伝を見ていました。柏原竜二さん(東洋大学OB)の山上りが特に印象に残っています。真剣に見るようになったのは中学生になってから。中学2年生になる年に東日本大震災があり、その年の秋に柏原さんが福島に帰ってきて、県内を縦断するふくしま駅伝に出場していました。地元で箱根駅伝のスターの走りを見て、箱根駅伝に憧れを持つようになりました。
 高校(学法石川高校)ではチームメイトに阿部弘輝(明治大学OB、現・住友電工)や田母神一喜(中央大学OB、現・IIIF)、遠藤日向(現・住友電工)といった強い選手がいました。彼らは世界を目指していましたが、高校生の頃の僕は世界よりも箱根駅伝を走りたいという気持ちが強かったです。同郷の柏原さんや酒井監督(俊幸、東洋大)の存在が大きくて、箱根駅伝は“手が届いたらいいな”という世界にありました。

 強いチームで4年間を送り、箱根駅伝で優勝したいと思っていたので、東洋大学に進みました。
 入学してすぐに先輩方の箱根駅伝に対する思いの強さをひしひしと感じました。冬になるにつれ、だんだんチームが1つになっていく感じがあるんです。箱根駅伝のメンバーに入れなかった上級生が率先して掃除を行ったりと、献身的にチームをまとめようとしてくれました。そんな先輩方の姿を見て、“これが箱根駅伝なんだな”と実感しました。ありがたいことに、僕は1年目から箱根駅伝のメンバーになりましたが、身が引き締まる思いがしました。こんなところからも“箱根駅伝ってやっぱりすごい!”って思いました。

 1年時は、11月の上尾シティハーフマラソンで好走し(1時間2分05秒で5位)、酒井監督に2区を言い渡されました。ところが、その後に故障があったり、体調を崩したりして、結局走ることができませんでした。2区に登録されながらも、事実上の当て馬で当日変更。その悔しさがあって、来年は絶対に2区で活躍してやろうと誓いました。

 そこから1年間努力をして、やっと走れた2区で先頭を走り、しかも、チームも往路優勝できました。なので、2年時の箱根駅伝(第94回大会)は4年間で最もうれしかった思い出です。
 僕自身は区間賞に3秒差の区間3位。その時は区間賞を狙って走っていたわけではありませんが、そんな気持ちだったから区間賞に届かなかったのだろうと、強く思いました。技術ももちろん大事ですが、最終的には気持ちの差が出てしまった。科学では説明し切れない、1位を目指す高揚感のようなものがあるんだろうなと思ったので、それからは大きな舞台や目標とするレースでは絶対に1番を目指そうと思うようになりました。

 3年の終わりぐらいからは学生相手には負けないようになっていました。
(3年の全日本大学駅伝以降は、卒業するまで学生三大駅伝全てで区間賞。また、3年の箱根駅伝4区、4年時の出雲駅伝3区、全日本3区、箱根2区と4大会で区間新記録を樹立した)
 4区で活躍した藤田敦史さん(現・駒澤大学監督)もそうだったように、箱根駅伝の2区や4区でしっかり走れれば日本のトップレベルになれると思っていたので、(第95回大会で)4区で区間新記録で走れたことはとても自信になりました。同時に“学生の中で争っていてはいけない”と感じ、少しずつ世界を意識するようになっていきました。

 実は、箱根駅伝の5区を走ってみたかったんです。下りは嫌いですけど、後輩の宮下(隼人、現・コニカミノルタ、第96回大会で5区の区間新記録を打ち立てた)よりも上りは強かったですから。それに、2区で活躍しても、1月3日の新聞の朝刊の一面を飾るのは5区なので、5区でごぼう抜きをして優勝のフィニッシュテープを切ってみたいと思っていました。チーム事情から実現することはありませんでしたが。
 もちろん2区にもこだわりがありました。2区が箱根駅伝のエース区間だと思っていましたから。“2区で区間賞を獲りたい”“1時間6分台で走りたい”っていう気持ちを持っていました。(1時間6分台どころか、4年時には1時間5分57秒の区間新記録を樹立した)
 あの年(第96回大会)は他の区間でも結構好記録が出ていましたが、あの位置(14位)でもらって、伊藤達彦選手(東京国際大学OB、現・Honda)と一緒に走ったことがかなり大きかった。あの記録は、自分でも再現するのはなかなか難しいと思っています。

 記録を作った翌年は“破られたくない”と思っていましたが、今はどんどん破ってほしいと思っています。(翌年にイェゴン・ヴィンセント選手(東京国際大学OB、現・Honda)が区間記録を塗り替えたが、相澤さんの記録は日本選手最高記録として残っている)。記録は過去のもの。自分自身はもう箱根駅伝を走ることはできないし、未来を見据えて取り組んでいきたいと思っているからです。
 それに、毎年コンディションが全然違うので、他の年と比べようがありません。駅伝では区間記録を出すことよりも、その年に活躍することに意義があるのではないかと最近は考えています。とはいえ、1時間5分台の記録に挑戦する価値は大いにあると思います。

 箱根駅伝では、1つの目標に向かって集中して取り組むことの大切さを学びました。何かを成し遂げるために必要な努力は惜しんではいけないことを実感しました。
 日本選手権を何回も走っていますし、オリンピックにも出場しましたが、それらの大会よりも箱根駅伝に臨む時のほうが緊張しました。オリンピックは緊張よりもワクワクのほうが大きかったのもありますが。箱根駅伝は、優勝を目指していた上に、どちらかというと追われる立場だったので、プレッシャーが大きかったです。

 その分、箱根駅伝を走ったあとは本当に気持ち良かった。たぶん甲子園でホームランを打つのもこんな気持ちなんだろうなと思います。僕は野球をやっていた時にホームランを打ったことはありませんでしたが……。
 大勢の観客のなかで走れることの素晴らしさ、ありがたみをすごく感じました。箱根駅伝で活躍できたから、いろんな人に知ってもらって、声をかけてもらえるようになりました。僕のターニングポイントは間違いなく箱根駅伝を走ったことだったと思います。
 箱根駅伝をゴールにしている選手も、そうじゃない選手もいますが、その先を見据えてやることが大事だと思っています。
 箱根駅伝に向けてやってきたことは、企業に就職する人にとっても絶対にその後の人生に生きてくると思います。競技を続け世界を目指す人にとっても、箱根駅伝はその土台になる。箱根駅伝は“ゴール”ではなく“ステップ”。そんな気持ちを持って学生時代を送るのがいいんじゃないかな、と思っています。
(東京五輪の写真:長田洋平/アフロスポーツ)