◆ 平川健太郎アナウンサー
1969年生まれ。1992年日本テレビに入社以来箱根駅伝中継に携わり、2015年第91回大会からは放送センターの実況を担当している。
入社以来30年以上、一度も途切れることなく中継に関わり続ける事が出来たのは
わたしの誇りであり、自慢でもあります。
その中でも特別に、強烈な印象として残っているのは、やはりこの大会でしょうか。
2011年の第87回大会。
わたしは往路のフィニッシュと復路のスタート、そして復路のフィニッシュの実況担当でした。この時は柏原竜二選手や双子の設楽兄弟を擁する東洋大の三連覇なるか、または渡辺康幸駅伝監督率いる早大が18年ぶりの優勝を飾るかが大きく注目されました。
レースは早大のスーパールーキー・大迫傑選手が1区で独走の区間賞デビュー。ところがじわじわと順位を上げる東洋大の足音が近づき、5区でついに3年生の柏原選手が早大を逆転、3年連続で往路優勝のテープを切りました。
復路は6区で早大・高野寛基選手が先頭を奪い返し、その後は東洋の猛追を許さず総合優勝。早大の夏合宿の取材に伺った際、「学生たちに胴上げしてもらうために、いま減量中なんですよ笑」と話し、学生たちと一緒に朝から走っていた渡辺監督の姿を思い出すと同時に、胴上げされた大手町の空でパッと弾けた笑顔は大変印象的でした。
ただ2位の東洋大とはわずか21秒差。この時の悔しさから、東洋大は翌88回大会、柏原主将のもと新たに打ち立てたスローガンでもある「その1秒を削り出せ」の走りで王座を奪還します。
・・・という、激しい優勝争いが一段落したあとです。あの出来事が起こったのは。
7位の拓大がフィニッシュすると、移動中継車が4校の集団を映し出していました。箱根駅伝のもうひとつのドラマは10位までに与えられる「シード権争い」。日体大、青学大、國學院大、城西大による3/4の戦いは、ラスト勝負に向け、各校がそのタイミングをうかがう展開になりました。
勝負が決まる区間のため、各大学はアンカーには上級生など安心して任せられる選手を配置するという話をよく聞きます。そんな中、初シードを狙う國學院大は1年生の寺田夏生選手を起用していました。この大会の10区にエントリーされた20人の中でただ一人の1年生です。フィニッシュに向けて、大手町のガードを過ぎたあたりでその寺田選手が一歩前へ。ついに動き始めました。わたしの実況開始のタイミングです。
フィニッシュライン横にあるわたしの放送席からは、肉眼では100m手前くらいからしかレースを見る事が出来ません。そのためレースの動きは残り100mを切るまではモニターを見ながら実況しています。さあ動いた、シード争いは國學院大を中心にどうなるか、モニターを注視しながらシード権争いを盛り上げる様々な言葉を重ねていました。
と、次の瞬間・・・これまでモニターを見ながら実況してきた中で、寺田選手が見た事が無い方向へ走っていきました。
わたしの頭の中は「!?」だらけ。
箱根には「上り坂、下り坂、そしてまさかがある」とは聞いていましたが、こんなところに「まさか」が待っていたとは。
映像で見返すと、ものの2~3秒の出来事なのですが、その時にわたしが発していた言葉は、
「あーっと、あっ、あっ、あっ、コースを、コースを間違えている!? あーっ!!!」。
言葉はこれしか出て来ません。衝撃のあまり、声も派手に裏返っています。
永遠にも感じたこの数秒から意識が戻ってきたのは、肉眼で4人の選手が見えてきたあたりから。懸命に腕を振る選手たちを必死に描写していましたが、この時ほど、いま自分がどんな言葉を発していたかを思い出せない経験はありません。コースを間違えながらも寺田選手は自慢のラストスパートで走り切り、國學院大は見事初シードを獲得。駅伝ファンの間では、寺田選手が間違えて曲がってしまった場所は「寺田交差点」と呼ばれているそうですが、大役を果たした1年生の健闘があってこその微笑ましいエピソードかと思います。寺田選手はおそらく、自分が成しえた役割の大きさを実感したからだと思いますが、疲労のあまりレース後に行われたシード獲得のお祝いの会には参加出来なかったそうです。どれだけの期待や緊張を感じながら走っていたのかがよく分かりました。
その寺田選手は卒業後に実業団での活躍を経て、この7月に指導者となりました。おそらく箱根での経験も伝えられていくでしょう。次の世代に箱根の歴史や記憶が、この先も絶えることなく語り継がれていく事を祈ります。