◆ 寺田夏生さん
長崎県出身。諫早高から國學院大學へ。箱根駅伝は1年時に10区を走り、チーム初のシード権獲得に貢献。2年時に5区、3、4年時に2区と主要区間を担う。4年時は主将を務めた。大学卒業後はJR東日本に進み、駅伝やマラソンで活躍。今年3月に現役引退し、7月から皇學館大学駅伝競走部の監督に就任し、第100回箱根駅伝予選会に挑戦する。


 子どもの頃、祖父母がテレビで箱根駅伝を見ていたのをうっすらと覚えていますが、僕自身は大学に入るまでちゃんと見たことがありませんでした。というのも、中学1年生から高校3年生までは長崎県の年越し合宿に参加していたので、テレビ自体見ることができなかったからです。

 高校生の頃は“都大路(全国高校駅伝)で活躍したい”という思いのほうが大きく、正直、箱根駅伝のことは考えていませんでした。あまりにも練習がきつかったので、陸上競技は高校まででやめようと考えていたくらいでしたから(笑)。大学からはいくつか声をかけていただいたのですが、地元が同じ中山翔平先輩が國學院大學に進学しており、“もう一度一緒にやろうよ”と声をかけてくれて、國學院大に進むことを決めました。
 当時の國學院大は予選会校でしたが、先輩たちが“絶対に箱根に出るぞ”という雰囲気をつくっていました。当時の僕はまだ箱根駅伝の規模の大きさが分かっていませんでしたが、予選会を走ってみて少しずつ理解し始めました。のちに本選を走った時に、さらに“とんでもない大会だな”と思い知らされることになるのですが……。

 もともと持ちタイム的はチーム内で速いほうでしたし、長い距離はそんなに苦手としていなかったので、“1年目からしっかりメンバーとして走らないといけない”と思っていました。ですが、夏合宿でケガをしてしまい、練習を満足に積めずに予選会に臨むことになりました。さらに、予選会後にも違う部位を痛めてしまい、ジョグしかできない状態が続きました。12月に入ってからの箱根駅伝のメンバー選考を兼ねた練習でも、僕だけが全部外してしまったので、1年目は箱根には出られないなとのんびり構えていました。
 ところが、12月31日の夕方、前田康弘監督から10区を提案されました。前田さんは、将来のために1年生を最低でも一人は起用したいと考えていたそうです。今の箱根駅伝のように1km3分を切るハイペースは厳しかったと思いますが、ケガ明けでも3分5〜6秒ペースであれば、押していける自信はあったので、二つ返事でアンカーを務めることになりました。
 ですが、僕はこれまで箱根駅伝を見たことがありません。そこで、元日の朝、前田監督の車に乗って、急遽コースの下見を行いました。
 コースには走りやすそうだなという印象を持ちました。前田監督がいろいろ説明してくれたのですが、朝が早かったこともあって、なかなか頭に入ってきませんでした。でも、「ここを曲がったらすぐゴールだから、曲がったらダッシュしろよ」とおっしゃっていたことだけはずっと覚えていました。ただ、“ここ”がどの地点を指すかまではちゃんと確認していなかったのですが……。

 1年目の箱根駅伝(第87回大会)は、チームは目標としてきた初めてのシード権に向けて、往路は6位とかなり好位置に付けました。うれしく思う半面、“シード権ギリギリで来てほしくないな”と内心思っていました(笑)。ところが、その不安が的中します。僕がタスキをもらったのは11位。まさにシード権争いの真っ只中でした。10位の青山学院大とは21秒差だったので、シード権の可能性は十分にありました。とりあえず突っ込みすぎないように冷静に進めようと思って走りだしました。
 しかし、前との差は縮まりそうで縮まらないし、6〜7kmぐらいで結構きつくなってしまいました。ちょっと厳しいかなと思い始めた頃、山梨学院大と日体大に追いつかれてしまいました。ピンチの場面ですが、このおかげで気持ちを切り替えることができました。付けるところまで付いていこうと思って2人に付いて行ったら、楽になりました。かなり余裕があって、ジョグをしているような感覚になっていましたが、そこから集団がごちゃごちゃし、順位の把握ができていませんでした。(15km過ぎに青山学院大と帝京大を吸収し5人の9位集団に。その後帝京大が脱落。19km過ぎに城西大を吸収し5人の8位集団に。残り1kmで山梨学院大が脱落。最後は國學院大、青山学院大、城西大、日体大の4校で8〜11位を争った)
 青山学院大の選手とは一度同じレースを走ったことがあり、僕のほうがスパート力があるのは分かっていました。前田監督からも、給水を手渡された時に「お前はスパートがあるから、自信を持っていけ」と言われていました。あとは最後にダッシュして勝つだけ。そんなイメージが自分の中にできていました。

 残り500mを切って青山学院大の選手がスパートしたので、自分もそろそろスパートしようと思い勝負に出ました。ただ、ゴールがなかなか見えてこなかったんです(フィニッシュ地点が中継車に隠れて見えていなかっただけだったのですが……)。スパートしながらも“ゴールはどこなんだろう”と思いながら走っていました。
 残り150mの交差点で中継車が右折したのですが、その時に思い浮かんだのが、コースを下見した時に前田監督が言っていた「ここを曲がったらすぐゴールだ」という言葉でした。それで、“なるほど。ここを曲がったら、すぐゴールなんだな!”と勘違いしてしまったんですね。中継車に続いて右折すると、ゴールがない! 最初、何が起きているのか分かりませんでした。沿道の方が「あっち!あっち!」と教えてくれて、それでコースを間違えたことに気づきました。

 これはさすがに(シード権は)厳しいか、と諦めかけましたが、コースに戻ってみると意外にフィニッシュまで距離があります。“まだ間に合う”と思い直して、再度スパートをかけました。結局、城西大を抜き返してゴールしましたが、ゴールした瞬間はシード権を取れたのかどうか、分かっていませんでした。キャプテンや先輩方が笑顔で駆け寄ってきてくれたことで初めて、“シード権を取れたんだ”と気づくことができました。4年生を中心にチーム一丸となって勝ち取ることができた初めてのシード権でした。

 コースを間違えたことの反響は想像以上に大きかったです。前田監督からは「(コースアウトで注目されたことで)調子に乗ってはいけない」とずっと言われていました。学生だと勘違いしやすいと思うので、そう言ってもらえたのはありがたかったです。だからこそ、次はちゃんと結果を残して、みんなに声をかけてもらいたいと思いました。そういう欲が出てきたことが、大学4年間の成長にもつながったと思っています(その後、2年時に5区、3年時、4年時は2年連続で2区を担い、エースとしてチームを引っ張った)。

 今年3月いっぱいで現役を引退しました。選手としては、サブ10(マラソン2時間10分切り)はできましたが、日本代表クラスの選手ではありませんでした。それでも、たくさんの人に応援してもらって、ここまで競技を続けることができました。
将来は陸上関係の仕事をしたいと思っていたところ、縁あって、現在は皇學館大学で指導者となりました。いろんな方に応援されたり、憧れられたり、愛される選手を育成していきたいです。
 今年は箱根駅伝予選会に挑戦します。正直、突破するのはなかなか厳しいと思いますが、関東の格上の選手たちと走ることで肌で感じることは絶対にありますし、あの独特な雰囲気を体感して、少しでも視野を広げてもらえたらなと思っています。
(最後の写真:アフロスポーツ)