◆ 小川光明さん
1940年生まれ。1986年日本テレビ入社。1987年第63回大会から1994年第70回大会まで、放送センターの実況を担当。その後も2004年まで箱根駅伝中継に携わった。
1987年に中継を始めた当時、箱根駅伝はまだマイナーでね。周りからは「あんなマイナーなスポーツ何時間もやって大丈夫か?」と言われていました。それでもいろんな勉強をしてやってみたら「こりゃ面白い」とびっくりしましたよ。
ただ、やってみたらやはり長かったですよ。放送センターは途中でニュースが入ったりするので休憩する余裕がありましたが、中継車のスタッフは大変だったでしょうね。今は女性スタッフも移動中継車に乗っているんでしょう。立派なものですね。
あれだけの中継ですから、プランを考えたプロデューサーやディレクターもすごいけれど、それをやり遂げた技術スタッフがすごいと私は思います。山に寝泊まりしたり、電波をヘリコプターで受けて放送センターに飛ばしたり。箱根駅伝の成功は技術スタッフの勝利だと思いますよ。
我々アナウンサーは、15人が1人1校ずつ取材して、実況をしないアナウンサーは当日サブアナウンサーとして実況のサポートをしてくれました。放送センターで私の隣には加藤(明美)、斉木(かおり)、鷹西(美佳)がいてね。みんな優秀で助けられました。
取材では15人がそれぞれ各大学に散って、僕はセンターだから色んな大学を見に行きましたが、集めたネタはみんなで使う。たまたま使う場面が来たら喋ればいい。ある意味「早い者勝ち」。お互いに持ち寄ったネタは公平に、遠慮なく使うのがルールでした。そしてセンターにいる私は、出先や移動中継車のじゃまはしない。現場で見ている人が一番だという考えですから。野球中継でも「俺が俺が」じゃなくて、一歩引いて解説者とキャッチボールをしていました。もしかしたら、プロデューサーはそういう実況を聞いて僕に頼んで来たのかもしれませんね。
中継を始めた頃は順天堂大が強くなってきた時で、当時から血液検査をしたり、脈を測ったり一歩進んでいましたね。澤木(啓祐)監督はコワモテだったけれど、12月の寒い時期の取材の後に、宿舎で待っているとあったかいお茶を出してくれてね。あれはうまかったなぁ。
今ももちろん、早起きして箱根駅伝を見ていますよ。駅伝そのものもだけど、やはり仲間たちがどんな風に喋るか、放送するかをね。現役になったつもりで聞いていますよ。我々が1回目に勉強した以上のことを、若いアナウンサーがよく調べていますねぇ。それからもう1つびっくりしたのは、今はインタビューやリポートで若い女性アナウンサーが頑張っていますね。最初は「大丈夫かな?」と思ったけれど、これがまた良いですねぇ。よく勉強しているし、長すぎないし。
とにかくこれだけ大きな大会になったのは、金栗四三さんの大偉業だと思います。私も1回目の中継から関われて、ラッキーだったし、光栄だと思っています。