◆ 真也加ステファンさん
1972年11月27日、ケニア出身。山梨学院大附属高に留学し、山梨学院大では4年連続で箱根駅伝の2区を走り、2度の総合優勝に貢献した。早大の渡辺康幸とは名勝負を繰り広げ、語り種となっている。大学卒業後は、ダイエー、日立電線で活躍した。2005年8月に日本国籍を取得。2013年より桜美林大学陸上競技部で指導に当たっている。


 山梨学院大学の初めてのケニア人留学生の1人だったジョセフ・オツオリさん(故人)は、私とは地元が一緒で高校の先輩に当たります。後輩である私も、高校時代のクロスカントリーの成績などが認められて、上田誠仁先生(監督)と秋山勉さん(顧問)に声をかけてもらいました。
 オツオリさんが日本に行っていたのは知っていましたが、日本でどんな活躍をしているのかは知りませんでした。田舎なので日本の情報が入ってきませんでしたし、30年以上前のスマートフォンもなかった時代のことですから、調べる方法もありませんでした。
 実は、高校生だった頃の私は、将来はアメリカに行こうと考えていました。当時アメリカで活躍しているケニア人ランナーがいたからです。ところが、山梨学院大学のパンフレットやオツオリさんが走っている写真などを見せてもらい、「日本に来たら有名になれるよ」と誘われて、私も日本に行くことを決めました。

 山梨学院大附属高校に留学生として来日したのは11月のことでした。大学の寮に住み、大学生と一緒に練習をしていました。ちょうど箱根駅伝の最終調整の時期で、大学生の先輩は「箱根、箱根……」と言っていたのを覚えています。私はまだ箱根駅伝がどんな大会なのか、知りませんでしたが。
 箱根駅伝当日は、私も大手町に行きましたが、「オツオリ! オツオリ!」と多くの人に声をかけられました(笑)。オツオリさんはすでに日本で有名人でしたが、当時は日本にケニア人留学生がほとんどいなかったので、私をオツオリさんと勘違いする人が多かったんですね。初めて箱根駅伝を見て“僕も出てみたい”“テレビに映りたい”という気持ちが湧いてきました。

 箱根駅伝では4年連続で2区を走りました。初めて走った1年生の時(第69回大会)は、23kmがとにかく長く感じました。設定ペースは決められていたのですが、ウォッチを見ませんでしたし、トラックではないので細かい距離が分かりませんでした。だから、タイムに関係なく、ひたすら前の選手を追いかけました。23kmもあるのに、“(1キロ)2分30秒ペースでもいけるだろう”と思って、最初から飛ばしました。(4位から2位に順位を上げ)区間賞を取ることはできましたが、私にとっては失敗レース。ラップタイムはバラバラでしたし、初めての2区はきつかった思い出が大きいです。
 また、チームは優勝を目指していましたが、早稲田大学に敗れて総合2位でした。どちらが勝ってもおかしくはなかったと思いましたが、また来年優勝を目指して頑張ろうと気持ちを切り替えました。

 1年生の時の失敗のおかげで、2年生の時(第70回大会)はうまく走ることができました。コースも分かっていたので、前半の12kmまでは抑えて走ることにしました。
 1区の井幡政等さんが2位でつないでくれたのも大きかったです。やっぱり良い位置でタスキをもらうと気持ちにも余裕が生まれます。先頭の早稲田とは27秒の差がありましたが、良い流れを受けて、2区でトップに立つことができました。
 箱根駅伝は“エース区間の2区で勝たないと優勝できない”と私は考えていました。その2区で区間賞(区間タイ記録)を取って、総合優勝をすることができたので、とても思い出に残る大会になりました。

 箱根駅伝では悔しい思いも味わいました。それが4年時の最後の大会(第72回大会)です。
 前年(第71回大会)はチームとしては連覇を果たせたものの、私は区間新記録をマークしながらも、渡辺(康幸)君(早稲田大学OB)に敗れ区間賞を取れませんでした。
 最後の箱根駅伝でリベンジしようと誓っていましたが、練習で追い込み過ぎてアキレス腱を痛めてしまいました。渡辺君に勝って区間賞を取りたいと思いながらも、思うような練習ができず、万全な状態で迎えることができませんでした。
 23kmを走りきれるのか不安なまま本番を迎えました。タスキを受けたのは最下位でしたが、それでかえって気持ちに火がつき、“行けるところまで行くしかない”と思って走り出しました。しかし、調子が悪かっただけに、思うようにペースが上がらず、4年間で最も悪いタイムでした。なんとか頑張って9位まで順位を上げましたが、調子が良かったらもっと抜いていたと思います。
 チームも、3連覇を逃しただけでなく、途中棄権という結果に終わりました。良い結果を残して卒業したかったので、悔しかったし、悲しかったです。優勝して当たり前のチームでしたが、駅伝は本当に何が起こるかが分かりません。ゴールする瞬間まで100%はないことを実感しました。

 私は在学中に箱根駅伝で2度の総合優勝を経験しました。
 当時の山梨学院大学は強い選手がそろっていました。箱根駅伝のエントリーメンバーは当時は14人でしたが、メンバー争いがとても激しかったです。朝練習では、最後はみんなで競走になっていました。ケニア人の私が特別な存在ではなく、“一緒に練習をやっていけば強くなれる”とみんなが思っていたと思います。だから、強いチームだったんだと思います。
 一方、トラックで行う20000mなどのペース走が、私にはつらかったです。設定タイムが1周(400m)78〜80秒だったので、長い時間走らなければならなかったからです。特に冬場は寒いので練習を早く終わらせたくて、ついついペースを上げていました。飯島理彰さん(現・山梨学院大学監督)に「ペースを上げるな」と怒られたことがありましたし、上田先生からも「ペースを落とせ」と何度注意されたことか……(笑)。
 でも、2区で区間賞を取るために、練習で日本選手を引っ張るだけでなく、もっと速いペースで走りたいとも考えていました。それがチームのためになると思っていたからです。チームには、そういった考えを受け入れてもらいました。目標を立てて、それを実現するためのプロセスを考えることがいかに大事かは、大学時代に学んだことでした。

 箱根駅伝があったから、私はみんなに覚えてもらえたし、強くなって大学卒業後に企業で競技を続けることができました。そして、今にもつながっています。桜美林大学で指導者をしていますが、指導者として箱根駅伝に出場することが今の私の夢です。チームは着実に強くなっているので、早く箱根駅伝に出て、選手たちに良い思い出を作らせたいと思っています。
(1枚目の写真:日刊スポーツ/アフロ)