◆ 岡田正裕さん
熊本県出身。鎮西高から亜細亜大学に進学し、3年時には主将としてチームを箱根駅伝初出場に導く。3年時に9区、4年時に3区を走った。1986年からニコニコドー女子監督としてソウル五輪女子1万m代表の松野明美らを指導。1999年、亜細亜大学監督に就任し、箱根駅伝から遠ざかっていた母校を復活させると、2006年には初優勝を成し遂げる。2008年九電工女子監督を務めたのち、2010年から19年3月まで拓殖大監督を務めた。現在は小森コーポレーションで顧問を務める。


 亜細亜大学の監督を務めていた2006年の第82回箱根駅伝で初優勝を果たしました。ちょうど還暦を迎えた年で、本当に思い出深い大会になりました。
 9区の山下拓郎が残り3kmで駒澤大学をとらえ残り2kmで突き放した時には鳥肌が立ちました。10区へのタスキリレーの直前に山下が腕を回して私に合図を送ってくれたのですが、それは“やったぞ”というアピールだったのだと思います。その後ろ姿は誇らしく、私にとって一生忘れられないものになりました。

 初優勝から遡ること約40年前、亜細亜大学が第43回大会で初出場した時に、私は3年生で主将を務めていました。大袈裟な言い方をすれば、自分の力で1から作り上げて、初出場までこぎ着けたという思いがあります。指導者として初優勝した時には、学生だった当時のことが思い浮かびました。
 高校から本格的に陸上を始めた私は、高校2年か3年の頃に関東には箱根駅伝という大会があるのを知りました。熊本の田舎でラジオ中継を聞いていて、漠然と箱根駅伝を走りたいと思うようになりました。
 実は、当初は体育教師になるために日本体育大学に進学するつもりでした。ですが、当時の亜大のキャプテンをしていたのがたまたま兄の同級生で、そんな縁があり亜大に入学することになりました。当時はまだ箱根駅伝に出場したことがない大学でしたが、“1回は箱根駅伝を走りたい”という夢を持って上京しました。
 先輩からも「箱根を目指すぞ」と言われて、日々練習に取り組んでいましたが、1年目、2年目は予選を突破できませんでした。それまでは指導者不在。見様見真似で取り組んでいたものの、一部の選手は力を付けていましたが、チーム全体の力はまだまだでした。

 “このままでは箱根に行けない”と危機感を持った私は、仲間と連れ立って、実業団の強豪・東急電鉄を訪ね、中村清さん(東急のほか、早大、エスビー食品の監督を務めた)の右腕だった築地美孝さんに指導をお願いしました。その練習を確実に消化できるようになると、少しずつ効果が出てきて、3年の秋の箱根駅伝予選会で初出場を決めることができました。しかも、トップ通過でした。
 当時の予選会は千葉の検見川で行われたのですが、関東の秋空は本当にきれいなんですね。九州ではあまり見かけないほど真っ青で、初出場を決めた時、その空の青さがいち早く目に入り、強く印象に残っていました。箱根に臨むタスキを作る際に、あの時の空の青さを取り入れようという話になり、スクールカラーのグリーンをベースに、両側をブルーで縁取ることにしました。
 初めて挑んだ箱根駅伝は、ほろ苦い結果でした。私は9区9位という成績で、チームは総合11位とシード権を逃しました。
 翌第44回大会は、予選会を2年連続でトップ通過。そして、本選では総合8位となり、2回目の挑戦で初めてシード権を獲得しました。
 しかし、私自身はというと、脚を痛めていて3区10位と力を発揮できませんでした。後輩にシード権の置き土産ができたものの、箱根路には悔しさを残しました。
 それがまさか、その30年後に指導者として母校を率いることになるとは、当時は思いもしませんでした。

 話を戻すと、第82回大会で亜細亜大学が初優勝した時に、インターハイに出場経験がある選手は、4区を走った菊池昌寿だけでした。勝利を味わったことがない者がほとんどで、“雑草軍団”と称されていました。当時は駒澤大学が連勝中で、当然、亜大が優勝候補に挙がることはありませんでした。それでも、年を重ねるごとにチーム力が上がってきているのを私は実感していました。選手たちには“優勝だってできるぞ”と言い聞かせていました。その声に応えて、キャプテンの木許史博が「みんな、頑張ろう」と声をかけて、選手の中に“優勝したい”という思いを持つ者が少しずつ出てきました。
 往路は6位でしたが、先頭を走る順天堂大学との差は3分もありません。優勝できるという確信はなかったのですが、復路に重きを置いていたので、“ひょっとしたら勝てるかもしれない”という思いはありました。
 9区の山下が先頭に立った時に、10区の岡田直寛の付き添いをしていた学生に電話を入れると、「直寛が震えて、顔が青くなっています」と言います。そこで直寛に電話を代わってもらいました。
 「これまでの亜細亜の最高は3位だから、お前が抜かれて2位になってもいいんだ。だから、そんなに緊張することはないんだ」
 こんなことを伝えました。直寛は一時、駒大に11秒差にまで詰められましたが、中間を過ぎて本領を発揮。「練習は誰にも負けていない。行けるよ」と言葉をかけると、1秒、2秒とじわじわ差が開き始めました。

 この年から1位の大学の運営管理車を白バイが先導し、フィニッシュ地点まで先回りしてくれるようになりました。
 大手町でゴールに向かって走ってくる直寛の姿を見とめましたが、涙で潤んではっきりとは見えませんでした。胴上げをされている時も、こらえていた涙が目の中に溜まっていたので、ふんわりした気分でした。初出場を決めた日と同じように、初優勝の時も青空が広がっていたはずなのですが…(笑)。

 箱根駅伝を走った経験は、私の人生において宝物になっています。大学卒業後、地元の企業で営業職に就き、仕事が苦しかったり、もう嫌だなと思ったりすることが度々ありましたが、そんな時でも“俺は箱根駅伝を走ったんだ”という自負が、迷いや葛藤を打ち消してくれました。
 その後、松野明美(ソウル五輪女子1万m代表)を指導し、亜細亜大学、拓殖大学の監督として再び箱根駅伝に帰ってきましたが、指導者としての原点にも箱根駅伝があります。
 (先日のマラソングランドチャンピオンシップで2位になり、パリ五輪の代表を決めた)赤﨑暁(九電工)は、拓殖大学の時に指導しました。赤﨑も4年間、箱根を目指して頑張ってくれて、1年1年確実に力を付けているのを見てきました。赤﨑に限らず、箱根駅伝で育っていった教え子たちが、いろんなところで活躍していますよ。
 指導者としての私は、“教育者”というつもりはなかったのですが、箱根駅伝を通して人間形成ができたという思いもあります。かつての教え子たちから「あの時の経験が役立っています」という感謝の気持ちを伝えられると、箱根駅伝に携わることができてよかったなと本当に思います。
 箱根駅伝は100回大会を迎えますが、100回大会の時に監督さんをやられている方は幸せだなって思います。本音を言えば、私も現役の指導者として100回大会に携わりたかった(笑)。