◆ 尾方剛さん
広島県出身。熊野中、熊野高から山梨学院大へ。箱根駅伝は2年生で10区区間賞。卒業後は中国電力に進み、世界陸上マラソン3大会連続代表(パリ12位、ヘルシンキ銅、大阪5位)。北京五輪マラソン13位。現在、広島経済大学陸上競技部監督


広島県の呉市で生まれ、熊野町で育ちました。熊野町は陸上が盛んな地域で、町内駅伝も普通に毎年やっていました。陸上が特別なものではなく、身近なものでした。
熊野高校に進み、初めての全国大会が2年生の時の高校駅伝1区。ただ、プレッシャーに負けた部分もあり思うように走れませんでした。区間賞は同学年の渡辺康幸君でした。
3年生になり、秋の国体10000mで、康幸にどれだけついて行けるかという感じで走っていました。残り1000mで前に出ましたが、最後は前へ行かれました。

大学では「康幸と勝負したい」というのが一番でした。康幸に勝つために、対戦する回数の多くなる関東の大学、最終的には山梨学院大学を選びました。
しかし、2年生の8月くらいまでほぼ1年半、故障で走れませんでした。ウォーキングやサイクリング。時間があるときは甲府から昇仙峡まで行ったり。サーキットトレとか水泳、エルゴメータで追い込んだり。
わざわざ山梨に来たのに、走れない自分が許せませんでした。同級生もたくさんいたので、普通に走っているのを見るだけでも嫌でした。

1年生で迎えた箱根駅伝。山学大は2位に終わります。ただ私はメンバー入りしておらず、傍観者というか、勝とうが負けようがそんなに思い入れがありませんでした。応援でコースを回っていましたが、見ていても面白くありませんでした。

2年生の9月に走れるようになり、実質3か月の練習で、第70回箱根駅伝に出場します。10区は当初同学年の平田雅人君がエントリー。僕は補欠登録。大会前の練習は一緒にやっていましたが、どっちが行くとは上田誠仁先生からは言われていませんでした。

山学大が往路優勝しましたが、2位の早稲田は9区に櫛部静二さんが控えていました。最悪並ばれるか、もし抜かれたとしても自分を置いたら何とかなるのではないか、というのがチームの判断だと思いました。走るかどうかわからない状況で、前日の夜に上田先生から電話が来て、「お前で行く」と言われて、僕もすぐ「はい」と答えました。そこで躊躇していたらたぶん使ってもらえなかった。先生もそこで腹を決めたのでしょう。
1月3日の朝。初の大学公式戦なのですごく楽しみでした。9区で主将の黒木純さんが逆に早稲田を引き離しました。僕はもうイーブンペースで走ればよかったので、今まで走れなかった悔しさもあり、楽しんで走ろうと思っていました。
大会新での総合優勝のゴールテープは、単純にうれしかったです。

その後、メディアにたくさん取り上げてもらい、少し天狗になった部分もありました。いい思いをさせてもらった反面、区間賞を取ったことで世間が康幸くらい求めているのでは、と自分が勝手に思ってしまって。その後精神と体のバランスがおかしくなってしまいました。周りはそんなに思っていないけど、自分で自分にプレッシャーをかけていました。一流選手みたいなものを世間が求めているのでは、と勝手に思いすぎていました。現状と理想がかけ離れすぎているのに。その理想に自分が到達しなければ、と強く思いすぎていたのがストレスに。3年生の春くらいから髪の毛が抜けるのが多いなと感じていて、夏には全部なくなっていました。

大学では10区区間賞が、唯一の実績です。

実業団(中国電力)では、結果が全ての世界。坂口泰監督には1年目からかなり厳しく指導されました。負けず嫌いの私は、絶対に結果を残してやる、という気持ちでした。いくら箱根で区間賞でも、いま走れないと意味がない。プライドも全部捨てて、弱い自分をまず受け入れようと。2年目に自己記録を更新。そこから少しずつ、何とか踏みとどまったという感じです。

2003年パリ世界陸上のマラソン代表を決めるまで6回レースに出ましたが、様々なパターンを経験したことが生きました。2005年ヘルシンキ世界陸上の銅メダルは、アテネ五輪選考会だった03年の福岡国際で敗れた経験が大きかったです。2008年北京五輪は13位。速いペースになるとは思っていましたが、夏のマラソンでも5㌔から10㌔が14分30秒と上がるのは予想していませんでした。

もし私が山梨学院を選んでいなかったら、競技を続けられていなかったでしょう。2年生で区間賞を取ったけど、3年生以降は走っていません。これより下はない、という所までいったので。もうやめたら?と普通言われていたでしょう。
でも山梨学院はそうではなく、上田先生やチームメート、ほかいろいろな人が、ボロボロの自分を支えてくれました。そういう思いをしたから、走って感謝の気持ちを返すというか、自分が元気な姿を見せることが恩返しになるのかなと思ったり。競技成績は大学では残せなかったけど、気持ちの部分をすごく鍛えてもらいました。

人を育てるという部分があっての箱根駅伝でもあると思います。世界を目指せる選手は、箱根駅伝で終わるのではなくてもっと上を目指してほしいなと思います。出場を目指すレベルの選手も、4年間何かをやり切ったという思いですよね。これだけやったから社会人としてやっていける、という風に誇りに思ってもらえたらいいですね。