◆ 谷口浩美さん
宮崎県出身。南郷中、小林高から日体大へ。箱根駅伝は2年生から3年連続6区区間賞。卒業後は旭化成に進み、1991年世界陸上東京大会マラソン金メダル。92年バルセロナ五輪マラソン8位。現在、ヨネックスランニングアドバイザリースタッフ


私にとって箱根駅伝の6区は、その後のマラソン人生の起点です。コースの特徴を理解したり過去の記録を調べたり、戦略を立てるのです。机上のプラン通りに走るためにはどうしたらいいか考えること。それがマラソンにつながりました。

6区を走るために準備した資料があります。当時の区間記録は日体大の先輩の塩塚秀夫さんが持っていて、陸上部に1キロごとのラップが残っていました。芦ノ湖から小田原まで、下りの中にも勾配に細かく差があります。グラフを作り、休む部分にまるく印をつけたりしています。

伴走車には「1キロ×21本をやりますから、塩塚先輩と僕の1キロのラップを、プラスマイナスで言ってください」とお願いしていました。

デジタル腕時計のでき始めの頃でした。私はつけていませんでした。自分的にどうやって山の中で、休む所やペースを上げる所とかを書き込んで、その通りに走る。データ通りに走るという準備をしていました。車のように最短距離でスピードを落とさず走りたい。そのために、イメージ的には「浮いて、締めて」という感じ。ずっと頑張りすぎではだめ。休むということがあって初めて生きる。動かしながら休む。例えば蝶のように、ふっと浮くところもあれば、インの時は突っ込む。その繰り返しをどうコントロールするかが大切でした。

6区を走ることになったのは、先輩から「谷口、お前体が軽いから、下りをやってみたら?」と言われたのがきっかけです。ただ、自分は弱いと自覚していたので、最後までエントリーされるかわからないので気が抜けませんでした。コース攻略のための資料を作り始めたのもそうです。どうやって走るか、攻めるか、戦略をたてました。

4年生の時に57分47秒の区間新記録で走りましたが、思い出すのは残り3キロです。箱根湯本から小田原までダラダラ下っています。そこでジープから「谷口、3年の時の通過ラップより10秒遅いよ」と言われました。快調に下っていた僕は走りながら「そんなはずない。また俺をだましているな」と思っていました。「谷口、本当に10秒遅いよ」「またまた冗談を」。3回目に「谷口、本当に10秒遅いから何とかせい!」と強めに言われ、そこで頑張ったら、残り3キロのタイムは3年の時より30秒速かった。

そこで、人間というのは思いを切り替えれば体って動くんだな、と悟らせてもらいました。残り3キロのその言葉で区間新が生まれたのです。言葉が自分の意思を変えるほど体が動くと実感させてもらったことが、五輪にもつながりました。

ジープからの声かけはものすごく大事。その人を変えることができるのが言葉だし、変わることは本人しかできませんが、頭の情報をいかに空にして、スポンジのように吸収して自分につなげられるか、ですね。

ジープと自分とのやりとりを、マラソンでは自分ひとりでやるのです。今どうやって走る?行く?行かない?とか。マラソンは30回くらい走っていますが、100日前から大会までの練習スケジュールを一覧表にしていました。レース後にはビデオを見直してレース中に考えていたことをチェックしたり。思考と体の融合。箱根駅伝の6区をしっかり走るために準備したことが、私のマラソンの基礎なのです。

自分が4年生の時、総合優勝しました。同期はみんな我が強かったですね。箱根駅伝は1人20キロ以上。高校駅伝までとは違い、お前の分は挽回するから、では通用しません。1人1人が持ち区間をどう走るかという強さ。その足し算だったのではないでしょうか。

大学は、自分で強くなる手段をどう選択するかが大事になってきます。いまの学生の皆さんへは、早くそこに気づいて取り組んでほしい。1年目より2年目、2年目より3年目、3年目より4年目と、必ずバージョンアップしていくという試金石を1年生から打てるかどうか。大学4年間のプロセスは、社会に出てからのプラスになるので、思う存分苦しみから逃げず、飛び込んでいってほしいですね。

100回大会を迎え、これまで大会を大きくしてもらって感謝です。箱根駅伝はタスキを渡さなければならないという責任感とか絆が見られる種目だからファンも多いのだと思います。沿道で応援してもらえることが走る選手の力になるので。あと、名字ではなく、下の名前を言って応援してほしいなと思います。沿道で名前を呼ばれたら絶対振り向きますからね。
(1枚目の写真:日刊スポーツ/アフロ)