◆ 徳永慎二さん
金栗四三の住家・資料館
熊本県玉名市上小田。日本マラソンの父と呼ばれ、箱根駅伝を創設した金栗四三(1891~1983年)が、家族とともに晩年まで過ごした住居。隣には愛用品やゆかりの品々が展示されている資料館がある。利用時間 9時~16時、利用料無料、定休日水曜(祝日の場合は翌日)。


私は金栗先生の自宅のすぐ前の家で生まれました。私が昭和31年生まれ、先生が58年で亡くなりましたから、私にとっては27年くらい「近所のおじさん」でした。
先生はいつもニコニコしておられて、普通に喋ってもらえる方でした。運動会を見に来ても、うちの親父は勝負事に厳しくて負けたら怒られましたけど、金栗先生は「よしよし、次頑張ればいいぞ、諦めちゃいかん」と、我々には優しいんです。ただ、強そうな体育教師たちが金栗先生が来られるとソワソワするので、「俺の近所のおじさん、すごいじゃん」と思っていました。
思い浮かぶのは、毎日朝夕、背筋をピンと伸ばして歩いている姿。雨の日も傘をさして歩いていました。「人間は足が一番大事なんだ」と。立ち姿がかっこ良かったですね。

オリンピックに3回も出たことも、何となく知ってはいましたが、イメージと合わないんですよね。自分からはそんな話は全然しないんです。うちの親父とも、「ストックホルムは遠くて行くのに17日もかかった」…なんて話はしていましたが、レースの話はしないんです。やっぱり途中棄権という結果が悔しくて、話したくなかったのかな。
箱根駅伝の話もしていなかったですね。普通なら自慢したくもなるのに、そう多く語る人ではなかったですね。子供さんたちも、父親がオリンピックに出たことを知らなかったくらいですから。

金栗先生は、大きな大会だけでなく、障がい者スポーツや女性のスポーツにも力を入れていました。オリンピックで海外の諸事情を見てこられたことが役立ったのでしょう。時代の先駆けとして、ものすごい功績だと思います。

金栗先生が亡くなって4年後(1987年)にテレビ中継が始まって、これだけ若い人たちが「箱根をめざしながら、世界をめざす」という大会に成長したのを見ると、金栗先生の思い通りになったなぁと思います。ずっと続いて、世界をめざす登竜門になってほしい。箱根駅伝がゴールにならずにもっと上を目指すことが、先生のそもそもの考えではないかと思います。
金栗先生も、箱根駅伝がこれだけお正月の風物詩になるとは思っていなかったと思います。「こんな大会になるとは思わなかったなぁ」とうれしく思っているでしょうね。