◆ 船越雅史さん
1962年生まれ。1986年日本テレビに入社。日本テレビが中継を始めた1987年第63回大会から箱根駅伝中継を担当。2005年第81回・2006年第82回大会では放送センター実況を務めた。
日本テレビに入社したその年、箱根駅伝の放送が始まりました。1987年、第63回箱根駅伝。最初の仕事が、日本体育大学の取材でした。健志台のグランドに着くと、所狭しと何百人ものランナーたちが走っています。さすがは日体大、長距離・短距離の区別もなく、しかもフィールドの選手もしっかりアップするんだなぁ…なんて思いながら、すぐ横にいた女子部員に「すみません、長距離選手はどのあたりにいますか?」と聞くとまさかの答えが!「あの~全員長距離の選手ですが…」?????学生時代に、20人ほどしかいない早稲田の取材しかしたことがなく、しばらく彼女の言っていることが理解できません。「・・・箱根駅伝の取材に来たのです」とようやく絞り出すと、彼女は「あ~、Aチームは倉庫の前あたりにいるグループです」と満面の笑み。ようやく箱根駅伝の取材が始まりました。まず対応してくれたのは大後栄治マネージャー(現・神奈川大学陸上競技部監督)。日体大の現状と、今回の駅伝の予想を詳しく説明してくれました(当時の日体大は実質的な指導者がおらず、練習・メンバー選考ほか、学生がすべて仕切っていました)。メンバーに入りそうな選手を4年生から順番に呼んでくれて一人10分ほど個別インタビューしました。この形式がその後長く箱根駅伝の各校取材のパターンになっていきました。この年、私はかなりの数の学校の取材担当になっていました(翌年から原則取材は一人1校に)。その最初の取材校の記念すべき最初の選手が、2年連続1区を走っていて、2年時には区間賞を獲得していた主将の仲西浩さんでした。仲西さんは自信満々「今年はレースを支配して、貯金を作って鈴木尚人(前年2区2位)にタスキを渡して前半でいい流れを作りたい」と。しかし何と、レース当日のエントリー変更で仲西さんは外れてしまったのです。12月の前半に取材するだけではダメだなぁ…と実感することになりました。
さて、当日の私の役割は、先頭を映し続ける第1中継車で、実況の芦沢俊美アナウンサーをサポートすることでした。1年目の私がベテランかつ最高のアナウンサーだと尊敬していた芦沢さんにできることなどあるはずもなく、ただ、後ろに立ってレースを眺めているだけでした。1号車から見えるレースは大東文化大学、中央大学、順天堂大学を中心に進んでいきますが、山登りの5区に入って「ぐいぐいゴーゴー」といきなり先頭に立ったのが日体大だったのです。主将の仲西さんを欠いて苦しいと思われた日体大、平山征志さんが堂々の快走です。しかし私が刮目したのは日体大のジープ車でした。そこにはなんと仲西さんがメガホンを使って檄を飛ばしていたのです。
慌てて芦沢さんに「ジープの右後ろに座っているのが1区欠場のキャプテン仲西です!」と伝えました。往路が終わって、宿に向かうその途中で、「あの情報よかったねぇ…ありがとう!あなたは取材した人の顔全部覚えているの?」と言われました。「いやぁ~、一番最初に取材した人だったので…」という言葉を飲み込んで、ベテランからの温かい言葉をありがたく頂戴しました。取材の大切さを身にしみて感じた出来事でした。その後の私の人生ではあまり実践できませんでしたが…
2001年、第77回箱根駅伝、私は第1中継車の実況を担当していました。この年はすごいレースになりました。総合優勝争いは最終10区までもつれ、特に9区での駒澤・高橋正仁さんと順天堂・高橋謙介さんの延々と続くトップ争いは素晴らしい戦いでした。その前日の5区山登りもし烈な争いでした。順天堂大学は前年8区区間賞の奥田真一郎さん、中央大学は前年5区区間記録を打ち立てた藤原正和さん(現・中央大学陸上競技部監督)。しかし小田原中継所で最初にタスキを受け取ったのは法政大学の大村一さんだったのです。すでに大学長距離界のエースランナーだった奥田さん、藤原さんに比べて大村さんの実績は贔屓目に見ても一段も二段も低い。10000mの記録も30分を切れていません。レースは大村さんがスタートして30秒ほど遅れて奥田さんが追う展開、1号車からははっきりと見えていました。そして見えていませんでしたが、さらに30秒余り遅れて藤原さんが3位で追っていました。すぐにレース展開を予想します。持っている実力(というか実績…)から考えて、遅くても大平台のヘアピンまでには奥田さんが大村さんをとらえるだろう。もしかするともっと早いかもしれない。そして藤原さんも同様に追い上げてくるだろう。そして奥田さんと藤原さんのデッドヒートになる。下りのスピード勝負はどちらが勝つのだろう…?自慢ではありませんが、組み立てたレース展開は、ほぼその通りになります、しっかり取材していますから(やはり自慢です)。ところが・・・・・レースはまったくその通りになりません。
この日、箱根の山には、猛烈な向かい風が吹いていました。連続する突風が選手に襲い掛かります。大きな第1中継車が揺れるほどの風でした。激烈な登りに加えて、強烈な向かい風が選手を苦しめます。この風が波乱を呼んだのでしょうか?すぐに脱落していくと思っていた大村さん(失礼!)がトップを力走し、奥田さんとの差が縮まりません。大平台のヘアピンを曲がっても、小涌園を過ぎても大村さんと、奥田さん、藤原さんとの差は小田原中継所の時とほとんど変わらないのです。陸上界の常識では、身長の低い選手ほど風の影響を受けやすいということで、一番不利なのは大村さんのはずなのです。ところが、その大村さんはまさに般若のようなものすごい形相で、身体全体を向かい風の中に押し込んでいくかの如く(記憶があいまいですが、確か放送でもそのように話したはず…)一歩一歩前に進んでいきます。これが4年生の意地なのか、責任感なのか、箱根駅伝の伝統の力なのか、それともトップでつないできた「襷」の重みなのか…大村さんのすごい迫力は少し離れた第1中継車を圧倒するほどでした。解説で横にいた碓井哲雄さんも盛んに首をかしげながら「よく頑張るなぁ…」と感心するばかりでした。もしかしたら、このままいってしまうのか?…伝統の法政大学の優勝記録を調べると・・・ありました!往路優勝1回、しかしそれは戦前の1931年のこと、実に70年ぶりの快挙になるのです。ところが、さすがに奥田さんは奥田さんでした。小涌園を過ぎて最高点を目指す最後ののぼりの踏ん張りどころで、ぐんぐん追い上げてきます。さすが、「順天堂クインテッド」と呼ばれているだけのことはあります。そしてその後方に中央大学の藤原さんの白いユニフォームも見え隠れするようになってきました。三つ巴の戦いになりましたが、まずは、奥田さんが大村さんとの差を一気に詰めて交わしていきます。大村さんも一層険しい表情で追いすがります。その表情はもはや格闘技の、いや武士道の決闘に挑む侍そのものの表情でした(映画でしか見たことないけど)。「追いついたらしばらく並走するか、一気に引き離すかのどちらか」という常識は通用せず、奥田さんが振り落とそうとするものの、大村さんが驚異的な粘りでなかなか離されません。それでも少しすると徐々に奥田さんが前に出ていきます。ただ、私には前年1年生で区間記録をマークした藤原さんが本命に思えてなりませんでした。かなりの時間後方で控えていましたが、トップ争いが決着しそうになり、奥田さんが先頭に立つや、一気に来ました。獲物を捕らえる鷹のごとくでした。下りに入り猛烈なスピードで差を詰め、一気に引き離し、そのまま芦ノ湖のゴールテープにトップで飛び込むのです。私には「ようやく来たか…」という思いがあり、その気持ちが「藤原が来たぁ!!!」という言葉になって口から出ました。藤原さんの記録は、前年の記録より2分15秒も遅いタイムでした。しかし、第1中継車から目撃した1時間15分余りの苛烈な戦いは、忘れられない時間になりました。大村さんの走りこそが箱根駅伝なのだ。。。そう強く感じました。
なお、最近聞いた話ですが、藤原さんの結婚披露宴でその新郎新婦の入場の際に流れたVTRが、この時の「藤原が来たぁ!」だったそうです。人生の門出を祝うその宴で私の声が流れたと思うと、喜びもひとしおです。まさにアナウンサー冥利に尽きます。
このほかにも箱根駅伝の思い出はまだまだあります。そういえば、私の母校早稲田大学はどうなのでしょう。この世に生あるうちにもう一度総合優勝し、大手町に「都の西北」「紺碧の空」がこだまするのを聞いてみたい、個人的にはそう思っています。