◆ 服部勇馬さん
新潟県出身。仙台育英高校から東洋大に進み、4年連続で箱根駅伝に出走。3、4年時は2区で2年連続区間賞を獲得した。卒業後はトヨタ自動車に入社。2018年福岡マラソン優勝、2019年MGC2位。2021年の東京オリンピック男子マラソンに出場した。


箱根駅伝を初めて意識したのは、中学校2年生の時です。当時は3000m9分00秒が全中出場の標準記録だったんですが、そのスピードで大学生の人たちは20kmぐらいずっと走っているんだなと認識し、すごい選手たちだな!と思ったのが最初です。自分もあそこを走ってみたいなと思い始めました。

仙台育英高校から東洋大に進んだ理由は、やはり「箱根駅伝で優勝したい」という気持ちがあったからです。酒井俊幸監督に見てもらいたいという気持ちもありました。酒井監督はカリスマ性もあり、自分自身が120%の力を発揮できないと到達できない目標を常に与えてくれました。自分よりも常に半歩先を見ている方で、大学の4年間、本当に成長できたと思っています。

出雲駅伝で2区、全日本大学駅伝で8区と1年目から主要区間を任され、自分はこういうところで勝負しないといけないんだな、と自覚を持つようになりました。初めての箱根駅伝では9区で区間3位でしたが、まったくの力不足だと感じました。往路の2区と同じ距離なのに、3〜4分遅い。1km3分ですら押せませんでした。「1年目から区間賞を取って、優勝に貢献するんだ!」と思っていたので、思い描いていたものと違って納得できませんでした。

1年目の箱根駅伝が終わった時に、「来年は絶対に2区を走るんだ」と決意しました。自分が2区を走れば、設楽啓太さん(現・西鉄)が5区にいけるので、チームのためにも走りたいと思いました。初の2区は区間3位で、少し消極的な走りになってしまったなと思いましたが、チームが優勝して、このときはひとまず満足できる結果でした。

箱根駅伝のあと、志願して2月の熊日30kmロードレースに出場しました。初めてのレースペースでの30kmで、まさか学生記録を更新(1時間28分52秒)できるとは思わず、自分でも驚きました。このとき、「1km3分を切ってはじめから早いペースで入っていっても大丈夫なんだ」とわかり、その後のレースに大いに生きました。

箱根駅伝に出場したい、箱根駅伝で優勝したい、という目標を1年目、2年目で達成したので、そのあとは当時3人しか達成していなかった2区での1時間6分台を目標としていました。ただ、駅伝はオリンピック種目にないので、酒井監督の意向もあり、世界に近づくために3年の夏ぐらいからマラソンに取り組み始めました。42.195kmという距離にも、「箱根も30kmも走れてるし、いけるでしょ」ぐらいの感じで抵抗感なく…今思うと甘く見てましたね(笑)。

マラソン練習を始めてからは、マラソンに取り組んだ中に通過点として箱根駅伝があるという気持ちでした。だからといって決して手を抜いていたわけではありません。特に4年生の時はキャプテンを務めて、「最後の箱根駅伝で優勝したい」という気持ちは強かったです。

チームを引っ張ってくださっていた設楽悠太さん、啓太さんたちの代が抜けて、「自分がやらないといけない」と使命感を持っていました。自分はどうやったら貢献できるだろう?と考えすぎて、今思うと前半シーズンは空回りしていました。そんな時に同級生がサポートしてくれ、メンバーから外れた選手がチームをまとめてくれました。結果的に僕は走りに集中できるようになって、「競技力でチームを引っ張ろう」と切り替えていけました。同期のみんなは、僕のことを頼りないと思っている人が多かったと思います(笑)。それぞれが役割を果たしてくれたおかげで、いいチームになっていたなと思っています。

11月の全日本大学駅伝で青山学院大学さんといい勝負をして初優勝できたので、「箱根でももう1回やってやるんだ」と思っていました。3年連続となった2区では区間賞。このときは本当に冷静に走れて、自分らしい走りができたと思います。これまでのレースでも片手に入るぐらいいいレースでした。1時間7分4秒とわずかに6分台には及ばなかったのは、自分の弱さかなと…。チームは結局は総合力で負けて、2位でした。1年間通して、「箱根駅伝優勝」に向かって取り組めたのはいい経験だったとは今でも思います。自分の走りに悔いはありませんが、チームの結果については悔しさが強く残りました。

卒業後はマラソンに本格的に専念しています。2018年の福岡マラソンで優勝できた時、そして次の年のMGCで2位になって東京オリンピックの出場権を獲得できたときは、「マラソンってこう走ればいいんだな」と少しわかってきた時期でした。心と体が合致していましたね。

逆に、21年の東京オリンピックは難しいレースでした。開催が1年延期になったことや世間の逆風などもあり、心と体が合致しない状態で出てしまいました。辛かったし苦しかったし長かったけど、一番自分自身に打ち勝ったレースだったのかなとは思います。結果は無様でどうしようもないですが、オリンピックへ向かう過程も含め、逃げ出さずにここまでやってこられたんだと感じられました。

今は、また1からやり直そうとしっかり体を作っているところです。パリオリンピック出場の可能性も、完全になくなったわけではないですから。改めて「世界と戦う」「強い選手に勝つ」ことを目標に、陸上を始めた頃の気持ちに戻れています。

箱根駅伝は自分の人生を変えてくれたと言っても過言ではないし、箱根のおかげで成長できたとも思っています。箱根がなければマラソン、オリンピックにもたどり着きませんでした。箱根駅伝のおかげで今も走り続けられていると思います。

箱根駅伝から一人でも多く、世界に羽ばたく選手が生まれてほしいと思います。大学4年間の生活で学び、培った経験を、社会人になってから大切に活かしてほしいです。僕もそうですから。当時一緒に戦ったメンバーと会うと、すぐにあの頃の雰囲気に戻れるんです。かけがえのない仲間に出会えたことも、一生の財産だと思っています。
(最後の写真:YUTAKA/アフロスポーツ)