◆ 河野匡さん
1960年9月10日、徳島県出身。徳島市立高では1500m障害で高校記録を樹立。筑波大学に進学し、3000m障害で活躍し、1982年のアジア大会では優勝を果たした。箱根駅伝には第56〜59回大会に4年連続で出場。1年、2年、4年時は6区、3年時は3区を走った。実業団の雪印に進み、現役引退後は指導者となる。1990年に大塚製薬陸上競技部監督に就任。現在は同部部長兼女子部監督を務めている。また、日本陸連でもロードランニングコミッションディレクターなどの役職を歴任し、日本全体の長距離界の強化を進めている。


 私が中学生、高校生だった頃、箱根駅伝は今のようにメジャーになる前でしたが、非常に大きな大会であることは知っていました。地元の徳島からも関東の大学に進んだ選手がおり、1月4〜6日の徳島駅伝には、箱根駅伝を走ったばかりの選手たちが帰ってきて活躍していました。“箱根ランナーは速いなあ”と思ったものでした。

 私は中学時代に全国中学校陸上競技選手権で3位になり、高校2年では1500m障害でインターハイ2位、3年では同種目で高校新記録を樹立し優勝しています。順天堂大学や日本体育大学といった関東の強豪校からもお誘いをいただいたのですが、国立の筑波大学を志望していました。私が中学生だった頃にできたばかりの大学で、体育教員が夢だった私は、中学生の時から筑波にどうやったら入れるかを考えていました。それで、高校も、陸上の強豪校ではなく進学校に進みました。

 ところが、私が高校3年の年に筑波は箱根予選会で敗退してしまいます。一方で、順大と日体大は本大会で優勝争いを繰り広げていました。
 1500mや3000m障害という種目に重点を置きながらも、長距離ランナーとして箱根駅伝を走りたいという気持ちは当然持っていたので、これは(進路の選択が)間違ったかなと考えたこともありました。また、筑波に行っても必ず箱根に出られるわけではないのだと、その時に思い知らされました。

 私はトラックと駅伝とで分けて取り組めばいいと考えていたのですが、大学に入学してみると、先輩方は春先から箱根駅伝のことしか語りません。そこは大きなギャップを感じました。ただ、1年生は文句を言える立場ではありません。影では同級生や1つ上の先輩に愚痴を言っていましたが(笑)。
 高校時代は朝練習もまともにやっていませんし、20kmを走る練習もやったことがなかったので、最初は長距離の練習に苦しみました。夏合宿でも、予選会に向けて相当走り込みました。とにかく1年目はきっちりとやり遂げようと思っていました。そして、先輩たちに勝って、レギュラーを勝ち取ってから、文句を言ってやろうと考えながら、練習に取り組んでいました。
 予選会には、チーム内で11番手か12番手だったので、15kmまでは集団走をして、ラスト5kmで全力を出そうというプランで臨みました。記憶の中では、たぶんラスト5kmで50人以上抜いたんじゃないかな……。チームは2位で通過し、私としても初めての20kmを走り切ることができて自信になりました。そこからは箱根駅伝本選に向けて、すごく集中しました。

 箱根駅伝は4年連続で走って、そのうち3回が6区でした。当時は体が細く身軽でしたし、3000m障害をやっていてスピードもあったので、“6区で行こう”という話になりました。
 箱根駅伝に向けた走り込みでスタミナが付き、3000m障害という種目にプラスになった面もありました。3年生ではユニバーシアード(現・ワールドユニバーシティゲームズ)の日本代表になり、4年生ではアジア大会で優勝することができました。
 その一方で、3000m障害で成績が出始め、試合への出場数が増え始めると、箱根駅伝の練習だけをやっているわけにもいかなくなります。スケジューリングが難しくなり、その点では悩みましたね。
 特に4年生の時には、秋に日本選手権があり、その後も8カ国陸上、インカレ、国体、アジア大会と大きな試合が続きました。アジア大会が11月末だったので、帰国してからすぐに箱根駅伝の準備に入りました。
 その年の筑波は往路優勝を狙っており、駅伝キャプテンだった私は、5区・山上りを走ることになっていました。
 しかし、5区の準備に取り掛かった直後にアキレス腱を痛めてしまったのです。
 仕方なく5区は3年生に託して、私は過去に2回経験のある6区を走ることになりました。でも、ジョグをするのでさえ痛いのに、無理やり走って区間12位。チームも総合8位という結果に終わりました。4年連続でシード権を獲得したものの、往路優勝の可能性もあると盛り上がっていたので、大手町に集まったOBをがっかりさせてしまいました。
 結局、ここで無理をしたことが祟って、アキレス腱炎が悪化。1984年のロサンゼルス五輪を目指していましたが、83年、84年のシーズンを棒に振って、五輪出場が叶いませんでした。そういった意味でも、私の競技人生において、大学4年の箱根駅伝は分岐点だったと思っています。
 タラレバになりますが、箱根を走らなかったらもっと回復が早かったかなと思うこともあります。でも、私は駅伝キャプテンでしたし、選手層が厚いチームではなかったので、雰囲気的にも走るという選択になりました。それが箱根の魔力だったのかもしれませんね。

 オリンピックの道が絶たれて2年半ぐらい荒んでいた時期もありますが、箱根駅伝での怪我や挫折が指導者になってから生きているのは間違いありません。
 駅伝はあくまでも強化のツールであり、大事なのは個人。それは私のチームづくりの揺るがないポリシーになっています。指導者になって30年以上経ちますが、個人の立ち位置で考えていくことを大事にしたいという思いは、現在に至るまで間違っていないと思っています。
 箱根駅伝がゴールの選手もいれば、箱根駅伝をもとに世界を狙っていく選手もいます。現役の学生ランナーは、自分の目標をしっかり定めて、その中で、箱根駅伝に思いをぶつけたらいいんじゃないかと私は思います。


日本陸連ロードランニングコミッションリーダーの瀬古利彦さんと

 余談になりますが、日本テレビで箱根駅伝の中継が始まったのが1987年の第63回大会からですが、1985年の秋ぐらいに中継のための下調べに協力したことがありました。当時、大学院に通っていて、順大の監督だった澤木啓祐さんから「資料を持って日テレに行け」と電話がかかってきたんです。それで、スタッフの方にいろんな話をしたり、日帰りで芦ノ湖まで足を運んだりしました。なので、全国放送で中継が始まった時は感慨深かったです。
 そんなことがあったので、箱根駅伝は毎年楽しみにしていて、テレビで見ています。一方で、その度に、山下りでアキレス腱が痛かったことが思い出されるので、古傷に触れられるような気もするのですが……。
 でも、“母校のために”という思いを持ってエネルギーを燃やし、青春真っ只中の凝縮された時間を仲間と共有できたことは、一生の財産になっています。
(写真2枚:長田洋平/アフロスポーツ)