◆ 大志田秀次さん
岩手県出身。盛岡工業高を卒業後、中央大に進学。箱根駅伝では3年時の第60回大会1区11位、4年時の第61回大会8区区間賞。卒業後は本田技研工業に進み、1986年アジア大会1500mで金メダルを獲得した。引退後の1991年から2001年までは同社コーチ。1994年から1999年までは母校・中央大のコーチも兼任した。その後2011年に創部された東京国際大の監督に就任。第92回箱根駅伝に創部わずか5年目で初出場、第96回大会で初シード獲得(5位)と躍進させた。2022年シーズンをもって監督を勇退、現在はHonda陸上競技部のエグゼクティブアドバイザーを務める。
選手として走り、コーチとして優勝を経験し、監督としてチームの育成と初出場に関わらせてもらって…考えると私の人生はかなり箱根駅伝に関わっていますね。岩手で生まれ育った頃は、箱根駅伝のことはあまり意識していませんでした。盛岡工業高校を卒業して中央大学に入学してみたら、当時は1学年7人程度と少人数で、「中距離をやっている自分でもメンバーに入れるかもしれない」と考え始めたのが最初です。
入学当初からケガが多く、3年の夏過ぎから本格的に練習に復帰し、箱根駅伝の14名のメンバーに入りました。レース直前に先輩がけがをしてしまい当日変更で1区にエントリーされ、陸上競技人生の中で一番緊張しました。当日の朝は震えが止まらず、朝食の味すら感じないほどプレッシャーがありました。結局区間11位でしたが、走っている時の記憶よりスタートラインに立つ前のことばかりが思い出される苦いデビューでした。
4年生でキャプテンとなり、「箱根の借りは箱根で」との思いで練習に取り組みました。夏はスタミナ養成と心肺機能の強化の為に、長野県の車山で1カ月、バイトをしながら走りこみました。当時は碓井哲雄さんがHondaの監督と中央大のコーチをされていて、週に何日か大学に指導に来る形でした。碓井さんから出された練習メニューを、私が選手の状態を見て変更し、実績を碓井さんに報告するスタイルでしたが、後輩からは、今でも「あの頃の大志田さんは厳しくて怖かった」と言われますよ(笑)。
箱根前の最終選考のレースで14名以内に入れなかったのですが、「練習がしっかりできているので本番に期待する」とメンバーに選んで頂きました。選考の結果だけではなく、それまでのプロセスを大切にすること、選手を信用、信頼することが私の指導者としての原点となっているかもしれません。
当時は下級生が強く、「練習量だけは負けたくない」と12月は復路8区を想定して練習に取り組み、1000kmほど走りました。往路は10位でしたが徐々に順位を上げ、8区を終えた時点で6位、そのまま順位をキープしてシード権を獲得。私は8区区間賞まで獲得することができました。「昨年の大会の借りを返せた」とキャプテンとしての安堵と充実感を感じました。
卒業後はHondaに入社し競技を続けましたが4年でマネジャーになり、碓井さん下でアシスタントコーチとして私も中大に行くようになりました。選手との年齢も近いことから、練習面、体調面、治療など選手から相談を受けたりしていました。碓井さんが大学のコーチを退くことになった時に、選手から「後任は大志田さんに面倒を見てもらいたい」と言ってもらい指導者としての道をスタートしました。
走っている時は「この大会で頑張るぞ」ぐらいしか思っていませんでしたが、指導者になると、周りの声がよく聞こえるようになりました。「いつ優勝するんだ」というOBからの声、箱根だけじゃなくて出雲も、全日本も。年を追うごとに期待や関心度が大きくなっていくのを感じました。それだけに、96年に優勝した時は、胸がすっと晴れました。学生主体のチームなので、陸上部の全体の監督の木下さんの元で私は、選手の競技面の指導を中心に当たることができました。
その後、中大のコーチ、Honda陸上部も退き、社業に専念した時点で、もう陸上の現場に戻ることはないだろうなと思っていました。年1回、箱根駅伝のラジオの解説に呼んでもらうことが、唯一の箱根駅伝とのかかわりでした。
しかし、東京国際大から「監督をやってくれないか」と話をもらい、指導できる機会があるならやりたいと即決しました。49歳で会社を退職し、「5年以内に箱根駅伝に出場する」という目標を掲げチームを始動しました。
とはいえ、まったく何もない、部員もゼロからのスタート。 学内放送で部員を集め、マネジャー含め4人からのスタートでした。練習も過去の資料を一切残していなかったので、昔の雑誌を参考に、自分が中大を指導していた頃のメニューを思い出して始めたのですが、その3分の2もできなかったと思います。練習の途中で歩いていたり、近道をして帰ってきたり、道路に倒れたりしている選手もいましたね(笑)。まずは、12Kmが走れるようになり、次に16km、そして20kmと徐々にできることを増やしていきました。
箱根駅伝予選会には、創部2年目から出場し、1年生だけで臨んだ大会で21位、次が17位、13位と学年を上げるごとに順位も上がり、総部5年目で4年生達が「今年が勝負の年、 箱根出ましょう」と言ってくれました。あの選手からの言葉は、4年間の迷いを吹き飛ばす一言でした。
そこで、選手の意識改革が必要と考え、当時初優勝を飾った青山学院大と常連校の東洋大に2泊3日の体験合宿をお願いし、快く引き受けていただき選手を5名程派遣させてもらいました。東京国際と他大学を比べて自分たちの欠点を知ることが目的でしたが、選手たちは「環境や施設は負けていないが、個々の記録はもちろんのこと目標に対する意識や意欲、闘争心、達成感が足りない」と気付いてくれました。
学生たちも「自分たちがやるんだ、できるんだ」と気付いてからは、より成長したと感じました。何事においても「やるんだ」という意欲をもっていかないと結果がついてこないと思います。箱根駅伝を目指すことは厳しい戦いです。その場所に身を置いて、4年間で陸上競技をやめるのか、その先も続けたいと考えてやるのか。それぞれの目標を持ってやることが大事だと思います。
創部5年目、予選会で9位となり、初出場が決まった時は大学のサーバーがパンクするほどの反響がありました。学生たちが成し遂げられたことは、本当に素晴らしいんだよと改めて伝えました。
前回大会では最大の努力をした結果の11位。あの時点ではそれが精一杯でした。11年で監督を辞める形になりましたが、プロとしてやっている以上、結果を求められる世界なのでそこは仕方がないと思います。
4月からはHonda陸上部にお世話になり、エグゼクティブアドバイザーとして、練習を巡回してスタッフや選手と意見交換や情報を共有し、監督・コーチと選手たちの橋渡しのような役割をしています。 大学時代指導した伊藤達彦、丹所健、ヴィンセントといった選手たちが箱根駅伝から世界に向かう戦いを共に体験できるチャンスを頂きました。大切な時間と感じています。
箱根駅伝は、本当に贅沢な大会だと思います。あこがれて当然だし、あそこで走れる選手が今でもうらやましく感じます。自分は選手として走り、コーチとして優勝、そして東京国際の監督として1から箱根を目指して……なんて贅沢なことをさせてもらったんだろう、と改めて思います。出場する選手たちは悔いなく存分に、あの光景を目に焼き付けてほしいですね。そして指導者たちは、「出たい」という気持ちだけではなく、それぞれの学生がどうなりたいか、どう強くなりたいかを考えて指導してあげないといけないと思っています。