◆ 佐藤悠基さん
静岡県出身。佐久長聖高校から東海大に進む。大学1年では3区、2年では1区、3年では7区を走り3年連続で区間記録を更新、区間賞を獲得した。卒業後は日清食品グループに進み、2011年世界陸上大邱大会に10000mで出場。2013年にマラソンに転向、2020年よりSGホールディングスに移籍。21年ニューイヤー駅伝で区間賞を獲得するなど健在ぶりを示した。


もともと佐久長聖高校時代から「トラックで世界と勝負したい」という思いが強く、箱根駅伝のことはあまり意識したことがなかったんです。いつも正月はアニメを見てましたね。東海大学に進学することになって、高3の冬に初めて真剣に箱根駅伝を見ていたら往路優勝して、その時に「勢いのある、いい大学に入るんだな」と思いました。

東海大では1つ上に伊達秀晃さんという力のある先輩がいて、練習環境も整っていて、寮もきれいで二人部屋で、申し分ない環境でした。トラックに重きを置いてはいましたが、チームに所属している以上「実力から考えたら自分も駅伝を走らないと」とは思っていました。走りたくないと思ったことは一切ないです。

ただ、1年の箱根駅伝の前は距離走はしていましたが、レースペースでハーフマラソンを走ったことがありませんでした。どう走っていいのかまったくわからない、という状態でスタートしたんです。戸塚中継所で襷をもらって、前を追いかけてとにかく走っていきました。
15kmを過ぎてから足に痙攣が出始めました。一瞬焦りましたが、体のことを考えて、痙攣している部分を使わずに走ろう、と対応して走り切れました。6月の全日本大学駅伝の選考会の時、棄権してしまっていて……「やらかして」いたので、絶対にチームに迷惑はかけられないという気持ちもありましたね。何が何でも走ろうという気持ちと、冷静に対処できたことは、このあとの3年間にも生きたなと感じています。
結果的に1時間02分12秒の区間新記録で走れました。注目されることももちろんうれしかったですが、目標はあくまで駅伝で活躍することではなかったので。変にひきずることなく切り替えてトラックシーズンに入っていけましたね。

2年の時は1区で「飛び出した」と言われていますが、東洋大の大西智也くんが集団から抜け出したので、そこについていこうと思ったら、いつの間にか一人になっていた、というのが正直なところです。この時も15km過ぎたら痙攣がありました。もちろん痙攣しないように対策はしていたんですが、レースになって自分の中のリミッターを外すと、長い距離になってくるにつれてダメージが出てきてしまいました。
マラソンに取り組んだ今だからわかりますが、当時は圧倒的に距離を踏む量が少なかったのが原因かなと思います。でも、当時やり過ぎていないからこそ、この年齢になった今でも続けられているのだろうなと思いますから、どちらがいいということはないかなと思います。ただ、痙攣さえしなければもっといい記録は出せていただろうな、とは思いますけれどね(笑)。

2年生の時に僕が作った1区の記録は、98回大会で中央大の吉居大和くんに破られました。彼のポテンシャルからしたら(記録を更新しても)おかしくないだろうなとは考えていました。レースは見ていましたよ。淡々といいリズムをつかんでいる走りでしたね。
ちょっと前だったら記録を破られて悔しいと思ったでしょうけど、今はないですね。記録を破っていくのは、競技者としてごく自然なことなのかなと思います。過去の結果なので、僕は今そこにチャレンジできません。誇りは持っていますが、どうすることもできないので割り切ってしまってる、という言い方が一番正しいかもしれません。ただ、区間記録保持者じゃなくなっちゃったので、箱根駅伝の仕事が少し減っちゃうかな?とは思いました(笑)。

トラックでは個人として世界と戦うということを意識していましたが、駅伝では常に自分を駒として考えていました。箱根駅伝なら10分の1の一人として、総合優勝をするためにどういう役割を果たすか。その役割に徹して全力を出した結果、区間賞、区間新記録が出るのがベストだと考えていました。
大学3、4年時は僕の陸上人生の中で唯一といっていいほど走れない、スランプの時期でした。3年の時は7区を走り、区間新記録こそ出しましたが自分的には失敗レースでした。最終学年の時は戦力的にも厳しく、自分は3区で区間2位でしたが、終わってみたらチームは18位と惨敗でした。やはりチームの雰囲気作りは重要です。それは今、SGホールディングスでもみんなに伝えています。

箱根駅伝はいろんな選手を育ててきた大会で、「箱根から世界へ」という言葉の通り、今もたくさんの選手が世界で活躍しています。箱根駅伝が個人競技の弊害になるという人もいますが、捉え方次第。うまく利用しようとすれば、利用して強くなれると思います。僕はチームの練習を上手く使って、例えば設定タイムが遅ければ後ろからスタートしたり、距離が足りないと思えば練習後にプラスしてやったりと、自分で合わせにいっていました。
僕も箱根駅伝で活躍できたことによって、個人としての価値を高められました。今でも応援してくれる方がいるのは、少なからず箱根駅伝のおかげだと思っています。大会が100回を迎えて素晴らしいと感じていますし、これからも大会の価値を高めて、それを通じてアスリートの価値をさらに上げていける大会になったらいいですよね。
それにしてももう、箱根駅伝を走ってからだいぶ経つんですね。最近は、突然辞めることになっても悔いがないように、1試合1試合を大事にしていきたいと思っています。理想の終わり方についても考えるようになりました。全部やり切って、「終わりだ」と思ったら自然と泣けるのかなと思います。それが最終目標で、泣けて終われたら最高ですね。