◆ 中村匠吾さん
1992年三重県生まれ。四日市市立内部(うつべ)中から上野工業高校(現・伊賀白鳳高)へ進学。高校時代は5000mでインターハイ3位入賞の実績があり、13分台の記録を提げて駒澤大学へ入学。大学入学後しばらくはケガの影響で活躍の機会がなかったが、大学3年時はユニバーシアードのハーフマラソンで銅メダル、世界ハーフマラソン選手権では日の丸をつけた。箱根駅伝には2年時から3年連続で出場し、4年時には1区で区間賞を獲得した。大学卒業後は実業団の富士通に進み、マラソンを中心に活躍。2019年のマラソングランドチャンピオンシップ(MGC)で優勝し、21年の東京五輪に出場した。
箱根駅伝は中学生ぐらいからテレビで観戦していました。上野工業高校(現・伊賀白鳳高、三重)に入ってからは、高校の先輩たちが箱根駅伝で活躍する姿を見て、私自身も“いずれは走ってみたい”と思うようになりました。そういう憧れの舞台でした。
私が見始めた頃に常に優勝争いをしていたのが駒澤大学です。高校の先輩方も駒澤で活躍されていたので、私も先輩たちに続いてこの大学で活躍したいという思いを強く持っていました。
入学する前は箱根駅伝の優勝から少し遠ざかっていましたが、強い選手が入学していましたし、駒澤は復活してまた強くなっていくんだろうなと思っていました。私自身もその力になりたいと思っていました。
そんな思いとは裏腹に、高校時代のケガが癒えないまま大学に入学しました。同級生には村山謙太(現・旭化成)という本当に強い選手がいましたし、先輩方も力のある選手ばかり。走れないことに焦りを覚えたこともありました。
1年目は箱根駅伝を走ることができませんでしたが、大八木弘明監督(現・総監督)から「上級生になってからしっかり走れるように、焦らずにやっていこう」と言っていただき、1年目を体づくりに充てて、2年生になってから少しずつ力を付けていくことができたので、大八木監督の言葉は本当にありがたかったです。
2年生になり、初めての箱根駅伝(第89回大会)では3区を走りました。高校時代からの憧れの舞台を走ることができて、とてもうれしかったです。沿道からの声援の大きさや大会の雰囲気は、今までに味わったことのないものでした。
私としてはまだ力がないと思っていたので、3区を走ることになるとは全く予想していませんでした。直前になり、私の調子が上がってきたことで、1週間前に大八木監督から「3区で行くぞ」と言われました。その時には大迫傑さん(早稲田大学、現・Nike)や設楽悠太さん(東洋大学、現・西鉄)といった強い選手が当日変更で同じ区間を走るとは思いもしませんでしたが…。私はまだまだ発展途上で、そんな強い先輩方と対等に戦えるレベルではなかったので、とても緊張したのを覚えています。大八木監督からは「胸を借りるつもりで走れ」と送り出されました。
結果は区間3位。先頭を走る設楽さんには離されましたが、(5位から2位に)順位を上げることができ、まずまず自分の仕事はできたかなと思っています。大八木監督には「前半は風が強いので自重しろ。後半しっかり風の中を走っていけるかが勝負だ」と言われていたので、前半は後ろにつかせてもらいながら力を溜めて、後半に勝負に出ました。かなり風が強かったので大迫さんや設楽さんのスピードには影響があったかもしれません。でも、その悪条件は、私にとって力を出しやすかったです。
大学に入ってから良い結果を残せていない中、初めての箱根駅伝で区間3位で走れたことで、3年生になってからは自信を持ってレースに臨めるようになりました。区間3位という結果に満足せず“もっと上を目指したい”という気持ちが新たに芽生え、2年生の箱根駅伝は1つのターニングポイントになりました。
3年生になると、ある程度力も付いてきて、駅伝では“流れを作る”ことを期待されました。出雲駅伝、全日本大学駅伝と共に1区で区間賞を獲ることができたので、箱根駅伝(第90回大会)でも、1カ月ほど前には1区を言い渡されていました。
いざレースがスタートすると、周りの選手からマークされているのを感じました。1区の大迫さんはプレッシャーがかかるなか、ハイペースでレースを引っ張ってくれました。私は1週間ほど前に足を痛めて調整不足だったので少し不安がありましたが、前半は大迫さんの力を借りながら集団の中で走り、レース後半に備えることができました。
20kmを超えるレースでは経験したことのないハイペースで進み、10kmのタイム(10kmを28分36秒で通過)を見て“速いな”と思ったのですが、うまく流れに乗れることができましたが少し焦りもあり、仕掛けるポイントが少しだけ早くなり、区間賞を逃してしまいました(20kmを前に中村選手はスパートしたが、日体大の山中秀仁選手にスパートを返され、惜しくも区間2位。1時間1分36秒の好記録だった)。調整不足のなか最低限の走りはできたものの、チームも2位に終わり、敗れた悔しさが残りました。
最終学年でキャプテンとしてチームをまとめる立場になると、そのプレッシャーからか疲れも出て、前半シーズンはなかなか思うような結果を残せませんでした。
それでも、最後の箱根駅伝で“優勝したい”という思いは強く持っていました。箱根駅伝(第91回大会)に向けてうまく調整でき、良い状態でレース当日を迎えることができました。
2年連続の1区を任されたものの、前年よりも早い段階できつくなってしまい、一度は遅れをとりました。きつい場面をなんとかしのぎ切ると、前年の反省を生かし、終盤までスパートしたい気持ちを我慢し、最後の1kmでスパート。1秒差で区間賞を獲得できました。
1区はチームの先陣を切る区間ですし、チームに勢いを付けなければなりません。独特の緊張感の中でスタートを迎えていました。他の区間も走りましたが、1区には特別な思いがあります。1区を走ったことにより、集団の中で走る時の位置どりを学び、勝負勘が磨かれたと思っています。それが2019年のMGCでも発揮できました(マラソングランドチャンピオンシップ。東京五輪の男子マラソン選考レースで中村さんは見事優勝を飾り、東京五輪に出場した)。
大学入学時から将来はマラソンで勝負したいと思い、大八木監督にも伝えていました。箱根駅伝の20kmの距離を走る練習とレースそのものは今でもマラソンに生きていると思います。学生時代にしっかり準備ができていたので、すんなりとマラソン練習にも入っていけました。
大八木監督は常々“箱根駅伝から世界へ”と指導をくださり、「お前は、箱根だけじゃなく、世界に出て行かなきゃいけない選手なんだ」と言い続けてくれました。もちろん箱根駅伝に向けて力を入れていましたが、そこで満足することなく、その上のステージを目指していこうと思えました。
大学4年間は“やりきった”と思う半面、箱根駅伝の優勝をみんなで味わいたかったという心残りもあります。特にキャプテンを務めた4年生の時には“もっと自分にできることがあったのではないか”と自問自答することもありました。今の学生たちには、後悔のないように1日1日を頑張ってほしいと思います。
(MGCの写真:AFP/アフロ)