◆ 大塚正美さん
茨城県出身。神栖一中、水戸工高から日体大へ。箱根駅伝は4年連続で走り(56回8区・57回5区・58回と59回は2区)いずれも区間賞。卒業後はナイキジャパン、神栖一中教員を経て、亜細亜大学監督、城西国際大学女子監督を歴任。現在、城西国際大学経営情報学部教授
茨城県の神栖一中時代はサッカー部でした。陸上部はなく、駅伝シーズンに有志で走っていました。5つの部活動の先生が交代で練習を見てくれながら、全国大会では3000mなどで優勝しました。水戸工高では長距離ブロック主将を務め、全国高校総体では1500mで優勝。短距離・フィールドを含めて学校としても総合Vを果たしました。
子どもの頃から教員志望だったので、その後は日体大に進みました。生活に慣れ練習もこなせるようになった秋ごろには、その後五輪代表となる4年生の中村孝生さんや新宅雅也さんに次ぐくらいの力をつけていました。箱根駅伝には1年生で唯一メンバー入りしました。
往路を走れるかなと思っていましたが、エントリーは復路の8区。往路は瀬古利彦さん擁する早稲田大学を新宅・中村の2枚看板で抑え、新人の私が8区で区間新、そして9・10区は坂本亘さん・充さんの双子リレーで優勝、というストーリーをチームは描いていました。
1年生で迎えた第56回大会(1980年)の復路。湘南海岸は冷たいみぞれと向かい風で、ウォーミングアップも充分にできない状況でした。前半は慎重に入り、徐々にペースアップ。上り坂はもともと得意、遊行寺の坂も快調に越えました。ジープには当時1500m日本記録保持者の石井隆士コーチが乗っていて、残り2キロで「あとトラック5周だ!」と言われたことを覚えています。狙い通りの区間新記録。チームも総合優勝しました。
2年生の時(1981年第57回大会)は「順天堂大学に勝つために私が5区を走るべきです」と直訴し、認めてもらいました。2区には主将の新地憲宏さんがいたので、つないでもらえたら私が逆転しますよと。
順大の5区は、当時4年生の上田誠仁さん(山梨学院大学前監督)でした。私は1位の順大から1分55秒差の2位でタスキを受け、大久保初男さんの持つ区間記録を上回るペースで、前が見える位置まで追い上げました。
ところが、5区の頂上付近で猛烈な冷たい向かい風を受け失速します。2日の朝、箱根の山の天候を部員に聞いたところ「晴天だよ。雪もない。大丈夫だよ」と。えっ、そうなの?と思いランニングシャツで走っていたのです。上田さんは半袖でした。
体が一気に冷え、一度詰めた差が逆に1分差に開いてしまいました。区間賞は取れましたが、この時の5区は成功だとは思っていません。もう少し工夫しておくべきでしたね。
4年生になり、最後の箱根駅伝は陸上競技部全体の主将として臨みました。首位の東洋大学から1分差の2位でタスキを受けました。23秒後ろから、後にソウル五輪代表になる大東大の米重修一さんが追いつき、いい形で競り合うことができました。4年生の2区での米重さんとの勝負。権太坂の上りに入る前あたりから一気に前へ出て、米重さんを突き放しました。注目されていた米重さんを離せたし、いわゆるゾーンに入っている状況でした。卒業後は駅伝チームのない実業団に決まっていたので、大好きな駅伝はこれが最後だ、という気持ち。戸塚中継所に倒れ込みながらゴールしました。
4年時の総合優勝は圧勝でした。そのメンバー10人中9人が、その後教員となります。当時みんなが教員を目指す目的意識があり、自己管理ができていました。自分たちで練習を組み立てられたし、体調管理もできた。強さの要因です。教員になる、という大きな方向性がなければ、いくら力があったとしても、なかなか整わなかったのではないでしょうか。
箱根駅伝は、その後に人生につながる、いい教材になると思います。世界を目指すトップランナーから、箱根駅伝をゴールとするランナーまで、大会から何かを学んでほしい。科学的なことを研究したり、人付き合いもあるでしょう。あれだけの距離を10人でつなぐことは大変なこと。目指す過程で得た出会いや経験を、次の世代へ伝えてほしいですね。