◆ 蛯原哲アナウンサー
1974年生まれ。1997年日本テレビに入社以来箱根駅伝中継に携わり、2019年第95回大会からは1号中継車の実況を担当している。
入社1年目、初めて箱根駅伝中継に携わったのは、1998年・第74回大会でした。
アナウンス部では、各大学の取材担当責任者を決めて、中継に臨んでいます。その年、私が取材担当責任者となった大学は、順天堂大学でした。当時の監督は、澤木啓祐さん。日本陸上界の重鎮。学生時代は日本陸上界のプリンスと呼ばれ、箱根駅伝4年連続・花の2区。4年生の時には主将を務め、区間新記録で初優勝の立役者となった方。1968年のメキシコ五輪、1972年のミュンヘン五輪、2度のオリンピックも経験されています。指導者としても、この年までに、箱根駅伝4連覇を含む7度の総合優勝を果たした名将。私は、緊張しながら順天堂大学の取材に向かった日のことを、今でも鮮明に覚えています。
「君、乳酸値は、わかるか?」この澤木監督の言葉は、今でも耳に残っています。
箱根駅伝は、それまでお正月に欠かさず見ていましたが、陸上のことなどさっぱりわからない無知の私は、正直に、「申し訳ありません。勉強不足です。わかりません。」と答えました。
澤木監督は、懇切丁寧に、乳酸値、最大酸素摂取量、心肺機能のことなど、長距離選手に欠かせない医科学的な部分を教えて下さいました。
一方で、「素質はあるが、ゴールした後、ヘロヘロになるから、私は、「ヘロ」と呼んでいる」と、当時2年生だった政綱(まさつな)孝之選手のことを、嬉しそうに話していたことが、忘れられません。ちなみに政綱選手は、この大会、7区・区間4位と好走しました。
この年、順天堂大学は総合5位。神奈川大学が2連覇。翌1999年・第75回大会、順天堂大学が総合優勝を果たします。この年も、政綱選手は7区・区間4位で、総合優勝に貢献しています。
入社1年目、箱根駅伝当日の私の役割は、先頭を映し続ける中継1号車で、実況の船越雅史アナウンサーをサポートすることでした。何もすることが出来ず、「船越さん!富士山が綺麗です!」「船越さん!横浜駅、物凄い人の数です!」と言ったことくらいしか、覚えていません。
ただ、中継1号車から見た景色、大手町・読売新聞社前をスタートして、選手たちが左にカーブを取り、日比谷通りに出てきた瞬間は、この目に焼き付き、いつか、箱根駅伝の1号車の実況をしたい、そう、大きな夢を持つようになりました。
それから、21年後。2019年・第95回大会で、夢だった中継1号車の実況を初めて担当させて頂きました。東海大学初優勝。実は、新人の頃から、大変お世話になった制作スタッフに、東海大学出身の方がいました。西宮晋さんという方でした。箱根駅伝の準備をしている期間、わからないことがあれば、いつも西宮さんに電話をして、助けて頂きました。時には大晦日、時には本番当日に、電話をして、すぐ調べて頂き、救われたことが何度もありました。いつも失敗ばかりで、先輩に怒られてばかりの私に、西宮さんは、「えび、いつか、1号車、やれよ!」と、励ましてくれました。しかし、西宮さんは、私の1号車の実況を聞くことなく、病に倒れ、青い空の向こうへ旅立っていきました。
第95回大会。青のユニホームに身を包んだ、東海大学アンカーの郡司陽大(あきひろ)選手が、真っ青な空の下、きらきらと輝く、栄光の中央通りを、先頭で走る姿。「西宮さん!見てますか!初優勝ですよ!」込み上げるものを必死に堪えながら、実況させて頂きました。一生、忘れることのない、時間でした。