◆ 重松森雄さん
福岡工業高校から九電工を経て、62年福岡大学に入学。2年生のときに招待枠で箱根駅伝に出場、2区を走り区間新記録を樹立し区間賞を獲得した。大学4年時にはボストンマラソン優勝、ウィンザーマラソンで当時世界最高記録の2時間12分0秒をマーク。66年にクラレ入社、71年の現役引退後は岩田屋、サニックス、メモリードなどで監督を歴任。現在は日本スロージョギング協会理事長。


福岡で生まれ育ったのもあり、福岡工業高校在学時は箱根駅伝については全然意識していませんでした。卒業後は大学に進学したいと思ったものの、経済的に苦しく断念し、九電工に就職。陸上は実業団という形で続けていたので、走る方で頑張って大学にいける道はないか、と思うようになりました。

当時、九電工の監督はヘルシンキオリンピックに出場された西田勝雄さんでした。西田さんのもとで走り、社会人2年目に熊日30kmロードレースで1時間36分29秒と日本最高記録を更新できました。ますます大学への希望がふくらみ、福岡大学の試験だけはこっそり受けて合格しました。それでもすぐには踏ん切りがつかず、休学の書類を提出して1年考えたのです。

陸上部の部長に退社して大学に行きたいと話したところ、「必ず課長以上にするから」と引き留めにあいました。私は「私が課長の年齢の頃には部長はいらっしゃいませんよね」と言いまして、社会人3年目はこれで辞めるから会社に恩を返そうと決めて臨みました。ですが4月に急性肝炎を発症し、半年走れませんでした。親身になってくれた医者の先生がいて、なんとか回復。11月に復帰して1月の朝日駅伝では区間2位、3月には玉名での30kmロードレースで1時間36分ほどで走れて優勝できました。これでマラソンができる!と思いましたね。

62年に大学に入学して目指したのは、2年半後に開催されると決まっていた東京オリンピックへの出場です。入学すぐの5月には日本インカレの20kmで優勝。秋の岡山国体の35kmでも2位になり、このまま練習を積んでいければフルマラソンを2時間17分ほどで走れるのでは、という望みも出てきました。

箱根駅伝40回の記念として、福岡大の箱根駅伝への出場が決まったと知らされたのは、大会半年前の2年生の夏頃でした。毎年年始にはラジオで一生懸命聴いていましたので、その大会に出られると決まった時は嬉しかったですね。当時、福岡大学には私のように実業団から入った選手が5人ほどいました。優勝は無理としても、上位に入ることはできるんじゃないか?と考えて、みんなを奮い立たせて相当激しい練習をしました。とにかく、負けん気だけで生きてきましたから。絶対にここで関東の選手たちをやっつけるぞ!負けないぞ!と、常に対抗意識を持っていました。

※(日刊スポーツ/アフロ)

12月には私と、5区を走った谷川英明君がコースの試走に連れて行ってもらいました。2区に決まっていましたが、本当は5区を走りたかったんですよ。私は福岡大学から9kmぐらいの山奥で生まれ育ち、標高1100mぐらいの山で今でいうトレイルランをして自分を鍛えていましたから、上りは得意でした。けれど当時の2区は今より長い24.7kmできついコース。金森勝也監督から「とにかくいい成績を残したいから、2区に行ってくれ」と言われて受け入れました。

1区を走ったのは末次康裕選手で、彼も強い選手でしたからトップ集団で来るんじゃないか?と思っていました。残念ながら8位で来て、「もうちょっと早く来てくれればトップになれるのに……」なんてことを思いながらスタートしました。前には選手が見えていて、燃えましたね。追い抜くのにちょうどいい間隔だなと思いながら、前に前に!と進んでいきました。後ろからスタートしたことが逆に自分のパワーになったなと思います。坂ですか?あったかな、というぐらいでしたね。

結局6人を抜いて、2位でのたすき渡しでした。タイムは1時間13分52秒で、区間記録も4分21秒更新できて区間賞を獲得しました。この区間賞を取ったことが、私の人生を変えたと思っています。当時でもやはり関東の選手は強かったですから、彼らに勝てたという事実が大きな自信になりました。私はスピードはないけれど、練習量さえしっかりこなせればトップ選手とも戦えるんじゃないか、と思うことができたんです。

そのまま4月の東京オリンピック代表選考の毎日マラソンに挑戦しましたが、5位で出場することはできませんでした。ですがその次の年の4月にボストンマラソンで優勝でき、6月のウィンザーマラソンでは2時間12分0秒で走れて、世界記録を更新できました。これも箱根駅伝の経験があったからこそだと思っています。

(アフロ)

実は当時から、もっともっと練習すれば関東の選手も強くなれるのにな、と思っていました。ようやく今になって、箱根駅伝が日本のマラソンの礎と言えるようになってきたんじゃないかなと思います。

私は福岡に住んでいますが、読売新聞とスポーツ報知をずっと取っていて、しっかりと箱根駅伝に出る選手たちのことはチェックしていますよ。これだけ素質のある選手がたくさんいるから、我々の時代のように「マラソンは日本だ!」という時代がやがてまた来るのではないかと期待しています。箱根駅伝から、もっと日本のマラソンを背負う選手がどんどん出てきてほしいですね。

今年83歳になり、この年までよく生きられたなと。来年の100回大会を見られるのを楽しみにしています。走ってからもう60年も経った気はしないですね。20年ぐらいの感じがしますよ(笑)。この年になっても箱根駅伝を見られるなんて、こんなに嬉しいことはありません。テレビの前でレースを見るのを今から楽しみにしています。