◆ 只隈伸也さん
八幡大附属高校(現九州国際大付属高校)から電電九州に進んだのち、84年に大東文化大学に入学。在学中は箱根駅伝を4回走り、3年時の63回大会では2区区間賞を獲得。大学4年時の関東インカレでは1500m、5000m、10000m、20kmの4冠を達成した。卒業後は実業団・ヤクルトに進んだのち、仙台育英学園高校の監督を経て99年より大東文化大学陸上競技部コーチ、2000年より同監督。2008年に退任し、現在は大東文化大学スポーツ・健康科学部教授。
福岡で育ったので、箱根駅伝のことは正直よく知りませんでした。八幡大国際附属高校(現・九州国際大付属高校)を卒業した後は、実業団の電電九州に進み競技を続けることにしました。
社会人1年目、1月2日の高校陸上部のOB会で、ラジオを聴いていた恩師が「あいつはすごいぞ」と言い出したんです。高校で同級生だった金(木下)哲彦が、早稲田で箱根駅伝の5区を走って、区間2位になっていました。その時に初めて「箱根ってすごいんだ」と意識しました。と同時に、「あいつがあれぐらい走れるなら、俺もやれるかな?」と思ったんです。
僕は実業団に入ってから、1500mで九州チャンピオンになって、日本選手権にも出ていました。僕の2つ下で800mのインターハイチャンピオンになった島田栄二が大東文化大に進学する縁で、恩師が僕のことを当時監督を務めていた青葉昌幸さんに推薦してくれ、入学することになりました。
1年の時は1500m、5000m、10000mで自己ベストを更新して、箱根駅伝のメンバーに選ばれました。当時は1カ月前に登録されたら基本的にはメンバー変更できないので、体調管理が一番大変でした。3区を走り区間4位でしたが、沿道の応援が多くすごい大会だな、と印象を持ちました。5番目でもらって3番目ぐらいに上がったんですが、湘南海岸で抜き返されて、最後の5kmって大事なんだなと実感しましたね。
2年生の時は1区区間3位で、チームも総合3位となりシード権を獲得できました。そして3年生の時からちょうど日本テレビでの中継が始まることになりました。「チームの紹介ビデオを作ってください」という依頼や、いろんなメディアからの取材が来て、「今年は違うぞ!」と感じましたね。みんな気合いが入っていました。僕自身は11月末に郡山30kmロードレースに出て、のちにソウルオリンピック日本代表となった中大の浦田春生選手と競って優勝していたので、前半突っ込んでも走り切れるだろうと自信を持って臨みました。
初の2区で区間賞を獲得できましたが、走り終わった後は「1つレースが終わった」ぐらいの感覚だったんです。次の日、復路で仲間の応援をしていたら、沿道にいたおじさんがスポーツ報知を読んでいて「君、新聞に載ってるよ!」と声をかけてきたんです。こんなに大きく取り上げられるんだ!と驚きでしたね。他にもたくさんの方から声をかけてもらいました。
その年のバレンタインデーは、僕宛のチョコレートが寮にたくさん届きました。当時髪が長めだったので、そういう選手が新鮮だったんじゃないでしょうか(笑)。4年生の時も2区を走り、この時は区間6位でしたが、チョコレートは段ボールにいっぱいもらいました。すごい反響でしたね。
大学卒業後はヤクルトに入社し、そこで大八木弘明さんとチームメイトになりました。当時すでに大八木さんは駒澤大のコーチもしていて、「チームを強くしよう」と入れ込んでいました。僕もその姿を見て、ゆくゆくは指導者になりたいなと考えていました。
10年間実業団選手として走り、セカンドキャリアのスタートは仙台育英学園高校の長距離監督でした。ですが2年目の終わりに青葉先生から「大学にコーチで戻らないか?」と要請され、99年に母校に戻りました。2000年に青葉先生が陸上競技部部長となり、監督を務めることになりましたが、66回(90年)、67回(91年)大会で優勝した後は停滞期が続き、寮の雰囲気もあまり良くなく、「これで強くなるのは、少し難しいかな」と感じていました。コーチ1年目はシード権を持っていましたが、12位でシード落ち。寮生活から変えないとだめだと思い、ルールを作り徹底的に守らせました。
一番大切にしたのは「具体的だけれど意味のない目標」です。スリッパを揃えましょう、ゴミを拾いましょう、授業に出ましょう…「それ、陸上に関係あるの?」というところからです。トップレベルの選手たちには規律があり、人から言われなくても自分で行動できる。でも、今から強くなっていこうとする選手は、まず行動から変える必要がありました。規律がその人の感性を育てます。競技を通じて感性、感受性を育てないと強くならないと考えました。
まずは連続出場を目指し、徐々に強くなろうと計画を立て、5年目までは順調でした。しかし優勝を目指そうという04年の80回大会で大失敗してしまいました。これは自分の経験のなさもありました。自分がやってきたことが結実するのではと考え、育ててきた学生たちに任せたかったんですね。任せすぎてしまった結果、選手たちが自分を追い込みすぎてしまいました。
そこから歯車が狂い、13位でシード落ち。その後も予選会は突破できるものの、10位以内に入れない状態でした。08年の84回大会は9区で住田直紀が低血糖状態になり、途中棄権となってしまいました。流れが悪く、僕は退いた方がいいなと感じ、この年で監督を退任しました。もっとこうしたいという思いもいろいろとあったので、心残りではありました。
箱根駅伝は、本当に素晴らしい大会だと思います。第1回に4チームで始まった大会は、大学を超えた先輩方がレールを敷いてくれて、その最先端に今回、100回大会を走る学生たちがいます。彼らにはレールを繋いでほしいし、大会もより一層繁栄していってもらいたいと思います。
自分にとって箱根駅伝は「道標」のようなものですね。ないと生きていけないものではないけれど、箱根駅伝という軸があったからこそ、横道にそれそうになった時に必ず手を差し伸べてくれる人がいたと感じています。今は現場には関わっていませんが、母校の教員としてバックアップできることはしたいですし、僕の教え子でもある真名子圭監督にはいっそう期待していきたいですね。
(写真:アフロ)