◆ 田澤廉さん
青森県出身。青森山田高校から駒澤大学に入学し、箱根駅伝は1年目に3区、2年目からは3年連続で2区を走り、3年時には区間賞を獲得した。在学中にオレゴン世界陸上10000mに出場し20位。卒業後はトヨタ自動車に入社し、8月にはブダペスト世界陸上10000mに出場して15位の成績を残した。


箱根駅伝のことは高校1年ぐらいから意識しました。それまではあまり興味がなくて、見てもいなかった。でも先輩が走っているので知るようになって、「自分もあそこを走ってみたいな」「大きい舞台でみんなに注目されたら楽しいだろうな」と思うようになりました。

駒澤大に入ったのも、大八木(弘明)監督に見てもらったら強くなるだろう、という思いもあったんですが、箱根を走ってみたいというのがいちばんの理由でした。監督は自分が入学した時から「お前を世界で戦える選手にする」って言ってましたけど、正直なところ、自分にはそんな力はないし、「なんで自分に世界、世界って言うのかな」と思ってました。

すべてが変わったきっかけは、夏合宿でした。駒澤の練習はきつい、というのは覚悟していて、きつい練習をこなせば強くなれると考えて、Aチームの練習を全部やりました。そしたら「この練習を1年生でこなせた選手は、今まででも片手で数えるぐらいしかいない」と監督やコーチに言われて、すごく自信になりました。夏合宿を終えて、出雲駅伝のエース区間の3区を走って区間2位だったことで、「あの練習をやってきたから、ここまで走れるんだ」と確信できて、その1レースで気持ちも強くなれたと思います。

距離に不安はあったものの、全日本大学駅伝の7区で区間賞を取れて、「いけるかな」と思ってました。初の箱根では3区だったんですが、11kmぐらいで134号線に出て直線になったところからもうめちゃくちゃキツくなっちゃって…。途中で沿道の人が「あと3km!」って言うのでそのつもりで走ってたら、しばらくしてから監督が「あと6kmだぞ!」って(苦笑)。チームの流れが良くなかったので、自分が見える選手を全部抜いてやろうと思ってたんですけど、無理でした。全体的にうまくいかなかったなと思います。

(中村)大聖さん(現・ヤクルト)の代が卒業すると、確実に自分がエースとしてやっていかないといけないと思うようになりました。(鈴木)芽吹たち、強い選手も入ってきてくれたので、チームの底上げをしなきゃいけないと考えて練習に取り組んでました。コロナ禍で活動が制限された年ではあったんですが、気持ちをずっと切らさずに優勝に向かってチームがまとまっていました。

2年生で初めて2区を走った時は、最後の坂が本当にきつくて「自分はこの区間は向いてない」と思いました。だから3年生の時は「3区がいいです」ってずっと言ってました。結局走る人がいないから自分が走らないといけなくて、区間賞は取れたんですけど「やっぱり辛い」と思いながら走ってました。

最終学年では「学生駅伝三冠」を掲げて始動しましたが、前半シーズンは関東インカレでもあまり成績が良くなくて、故障者も多くて、「このままだと1つも勝てないんじゃないか」というぐらいチーム状態が悪かったんです。それを夏合宿で巻き返して、出雲、全日本と勝ってこられた。いよいよ三冠にリーチがかかっている状態で、僕は12月にコロナになってしまい、「終わった」と正直思いました。

それでも絶対に自分が走らないと優勝できないと考えていたので、隔離期間が終わってからすぐに動き出しました。ずっと部屋の中にいたので、外に出て歩いただけでも自分の足じゃないみたいな感覚でした。心肺機能もめちゃくちゃ落ちていて、大会までも満足いく練習ができませんでした。

当日は、大八木監督が22年度限りで辞めるとわかっていたので、絶対に「今年三冠しなきゃ」って思って走ってました。走ってる時に運営管理車から「信じてるからな」って言われて、体がいうことを聞かないながらも、それを意気に感じて走りました。1時間6分34秒で区間3位でしたけど、今考えてもよくあの状態で、あのタイムで走れたよなって思います。4年間で4年目の箱根駅伝が本当にキツかったし、とにかく強烈でした。

よく「箱根から世界へ」という言葉で質問をされるんですが、僕自身は「トラックで世界を目指す」ということと、箱根駅伝とはまったく距離も練習も別物だし、つながっていないなとは思います。秋シーズンにトラックでタイムを狙って、箱根駅伝に出るのはコンディション調整などが難しいと思ったことはありますけど、「走りたくない」と思ったことは1回もないです。チームのためにという気持ちが大きかったと思います。

卒業して1年目は、トラックに専念しています。今の1番の目標は、10000mでのパリオリンピックへの出場。そのために12月の日本選手権にしっかり照準を合わせていきます。8月に世界陸上に出場して15位でしたが、走ってみてもう少し力をつければ、入賞も見えてくるだろうなと思ったんです。勝負になれば、持ちタイムだけじゃないということもすごく感じたので、しっかり準備して狙っていきたいと思っています。

箱根駅伝は最初はあこがれの舞台でしたけど、途中からはチームのために、そして見てくれている人たちへの恩返しの場だと思って走っていました。やっぱり走ることによって、注目してくれる人、応援してくれる人が増えるのはすごくいいことだと思います。走る人には、その場を楽しんでもらいたいなって思いますね。

僕も、大手町のゴールでアンカーの青柿(響)を迎えた時は、本当にめちゃくちゃ嬉しかったです。自分たちで「三冠したい」って提案して、ものすごく注目されている中で目標が叶った瞬間だったので。本当に、自分の人生の財産になったなって思いますね。