◆ 徳本一善さん
広島県出身。法政大学時代、4年連続で箱根駅伝に出場。1999年(75回)1区10位、2000年(76回)1区1位、2001年(77回)2区2位、2002年(78回)2区途中棄権。実業団の日清食品グループでは、主に長距離走・駅伝で活躍。2003年・2004年日本選手権5000m優勝。2012年駿河台大学陸上競技部駅伝監督に就任し、2022年第98回箱根駅伝で初出場に導いた。


僕以上に、人生に箱根駅伝が関わっている人は少ないと思いますよ。広島で生まれ育ち、陸上は中距離をメインにやっていたので、高校までは駅伝に興味はなかったんですけどね。全国大会に出場して活躍していたので、大学進学の際はいろいろな学校から勧誘してもらいました。最初は関東に行くつもりはなかったんですけど、同郷で1つ上の為末大さんが法政大に行っているのを見て「為末さんができるなら俺でもできる」と進学を決めました。

当時は1500mで日本記録を出すのが目標だったので、そこにフォーカスしていました。箱根駅伝は、「4年生の時に走れたらいっか」ぐらいの気持ちだったんですよ。でも入学した時の5000mのタイムが14分06秒で、「こいつ長い距離もいけるだろう」という雰囲気は感じました。夏合宿で30km走をやらされた時はキツ過ぎて、「2度とやらない」って捨て台詞吐きましたけど(笑)。箱根駅伝が近づいてくると、チーム上位のタイムを持っていたので「どうしても出てもらわないと困る」と言われました。

いざメンバーに選ばれると、家族や親戚、近所の人たちがみんな喜んでくれました。当日は1区を走りましたが、沿道には途切れない観客、頭上にはヘリコプターが飛んでるし……今までに見たことない景色を見てしまいました。

この時は区間10位でしたが、「スポーツ選手としての価値を高めるならこの大会だ!」とスイッチが入りました。区間10番なんかじゃ名前なんて覚えてもらえない。最低でも区間賞だし、区間賞を取るだけじゃだめだとも思いました。距離に対する苦手意識はありましたが、もうやるしかないなと。髪を染めてサングラスをかけたのも、何かインパクトを与えようと思っていたのが大きいですね。

2年生のときも1区を走って、後ろに1分以上差をつけて区間賞を獲得できました。自分でも「できた」という感触がありましたが、それ以上に周りが変わりました。祭り上げられるというか……原宿で声をかけられたり、電車で自分のことを話しているのを聞いたり、ファンレターが寮に届いたりで、「活躍するとこういうことが起こるんだ」ということを面白く見てました。当時から自分を客観視する癖があって、ちょっと悪ぶったことを言っていたのも「こう発言すれば人はこう反応するんだな」という反応を確かめていたようなところもあったんですよ。

最終学年はチームのエースとして臨みましたが、箱根駅伝の1週間前に右アキレス腱に痛みがありました。でも最後の刺激入れでいつもより速く走れてしまって、当時は「ここで終わってもいいや」って思っていたので、とにかく痛み止めを打って出場しました。「この1時間だけはどんなに痛くても走り切る!」と思ってました。

あとから知りましたが5.4km地点ですか、右足の肉離れで足が動かなくなりました。世界がスローモーションになって、何が起こってるかわかりませんでした。意識は前に前にと進んでいるんですが、体が置いていかれる感覚でした。はっきりと「棄権したんだ」と認識したのは病院に行ってからでした。それまでは自分の気持ちが追いつかないし、理解したくなかったんでしょうね。

それまで目立っていた分、ものすごく叩かれました。けどそれも客観視している自分がいて、「世の中ってこうなるんだな」と。学習して次に活かすしかないよな、と思っていました。

卒業後はオリンピックを目指したりもしましたが、正直なところ不完全燃焼で終わったなとは思います。現役と並行して2011年に駿河台大学のコーチになった時は、やってくれないかと頼まれて、指導者というものに興味があったので受けた、ぐらいの感じでした。その後監督になってくれないかと言われた時は何回か断ったんです。

でも、当時の山崎善久理事長がすごく期待してくれて……「箱根に行くために、やると決めたらとことんやりますよ。心中してくれますか?」と聞いたら、「いいぞ」と言い切ってくれたので、面白いな!この人の下ならやってもいいなと思って、監督になることにしました。

そうは言っても、法政のようにある程度この練習をやっておけば、というものもほとんどない状態からのスタートだったので、最初は本当に苦労しました。新興校で名前もほとんど知られていない、実績もないので勧誘もなかなかうまくいきませんでしたしね。

21年の予選会を突破できた時は、選手たちが「絶対に箱根駅伝に行く」と決めて取り組んでくれたから出場できたと思っています。僕がいくら「箱根に行くぞ」と言っても、選手が応えてくれなかったら結果は出ませんから。実力的にはどう考えても、予選会での11位より上が見えなかった。でも8位で通過できたのは彼らの思いがあったからこそです。本当にすごいと思います。

でもいざ出場を決めたら、注目され過ぎてしまったこともあり選手たちはみんなガチガチでした。走り切って、たすきを繋ぎ切っただけでもすごいことだと思います。僕は正直初出場だし、失うものもないので、2日間楽しくてしょうがなかったですね。選手たちには本当に感謝です。昨年は出場できませんでしたが、今年は「なぜ出られなかったのか」を分析して、また出場を目指してチーム全体で取り組んでいます。

箱根駅伝は本当に大きな大会で、「化け物」とも言えるコンテンツです。そこから学んでいることはものすごくたくさんあります。僕にとっては人生のバイブル、生きていくことの教本です。

次回、100回大会を迎えますが、駿河台大では「100年の歴史の中に大学の1ページを刻もう」という言葉を掲げて出場を目指してきました。それを達成できたことは感慨深かったです。けれど目標を達成したらそれで終わりじゃない。次は連続出場、その次はシード権、その次は上位、そして優勝……期待に応える重圧が大きくなり、失敗の連続になることもあります。「箱根で結果を残す」ことはあまりに厳しく、残酷です。学生たちは「失敗を乗り越える力」がまさに問われているのだと思います。

チーム一丸となって、さまざまなことを乗り越えていくからこそ、箱根駅伝は100年も続いてきたのだと思います。今後も学生スポーツの支柱であってほしいなと思いますね。