◆ 柏原竜二さん
福島県出身。いわき総合高から東洋大に進学。箱根駅伝では4年連続5区区間賞に輝き、“2代目・山の神”と称された。また、1年、2年、4年時には区間新記録を打ち立て、チームの総合優勝の大きな力となった。卒業後は富士通で競技を続け2017年に引退。現在はラジオの解説などでも活躍している。


 陸上を始めた頃から自分が速くなるために走っていました。だから、他の人のレースには興味はなかったですし、箱根駅伝も見ていませんでした。それに、まさか自分が箱根駅伝を走るなんて考えてもいなかったです。
 それが変わったのは、高2の時の都道府県対抗駅伝で今井正人さん(順天堂大学OB、現・トヨタ自動車九州)の付き添いをしたことでした。その頃には少しずつ箱根駅伝に興味を持ち始めていたので、「箱根駅伝の5区ってどんな区間ですか?」と今井さんに質問をぶつけてみると、「やりがいがある区間だよ。大変だけどね」と教えてくれました。一流選手の付き添いをするのも初めてで、ちゃんとできるのか不安だったのですが、今井さんはいろいろと気を遣ってくださいました。その時に、今井さんが見た景色はどんなものなんだろうと思ったのが、箱根駅伝の5区に関心を持った始まりでした。

 東洋大学を志望したのは大西智也さんの存在が大きかったです。高2の時に見た箱根駅伝(第83回大会)で、スタート直後に飛び出した佐藤悠基さん(東海大学OB、現・SGホールディングス)に唯一人食らいついたのが大西さんでした。僕のレーススタイルも同じで、積極的に先頭に食らい付き、時には引っ張るというものです。“こういうレースをしてもいいんだ”と思い、東洋大で走りたいと思うようになりました。
 大学1年目は結果に飢えていました。
 大学に進学する際に、父が佐藤(尚)さん(当時スカウト兼コーチ)に「すべてコーチにお任せしますので、結果が出なかったら遠慮なくうちに帰してください」と話していました。父はそんなにものを言う人ではなかったので、父の覚悟を感じました。「これは、成績を残さなかったらやばい、本気で帰されるぞ」と思ったものです。
 高校時代の恩師・佐藤修一先生からも「お前ぐらいのクラスの選手は毎年入ってくるんだから、1年目から結果を残さなかったらレギュラーにはなれない。絶対に1年目から結果を出せよ」と言って送り出されました。僕はインターハイにも全国高校駅伝にも出ていません。エリートではないから結果を出さないといけなかったんです。

 箱根駅伝の5区は入学当初から希望していました。新入生歓迎会でも「5区をやりたいです」と明言していました。夏合宿でトレーニングを積み、箱根の5区を想定した練習でも良いタイムで走ることができました。他にも5区候補はいましたが、最終的に「柏原で行く」と言い渡されました。
 初めての箱根駅伝(第85回大会)では、先頭の早大とは4分58秒差の9位でタスキを受けました。走る前に佐藤さんからは「今日は3番で終わろう。そしたらチャンスあるから」と電話で言われたのですが、僕は「嫌です。僕は勝つために走るんです」と答えて電話を切っていました。そんな走りができる根拠は全くなかったのですが、その時の僕はそれぐらい勝ちたいという気持ちが強かった。

 レース中のことは正直覚えていないんです。月日が経つごとに記憶が薄れていきました。“ゾーンに入る”ということがあるんだなと思いました(1時間17分18秒の区間新記録で、チームも往路優勝を果たした)。
 走り終えて時計が77分台で止まっているのを見た時は、えっ?って驚きましたね。芦ノ湖で待っていた先輩にタイムを聞かれた時にも、「77分で止まっていますが、どこかで止めてしまったのかも…」と答えていたぐらいです。1年生だからといって外すわけにはいかない。そういう覚悟を持って臨んだからこそ、箱根駅伝で結果を残すことができました。親や佐藤修一先生が、そういった覚悟を持たせてくれたことは大きかったと思います。

 2年目の箱根駅伝では連覇を果たしましたが、1年時の優勝とは違う意味合いがありました。酒井(俊幸)監督が初めて指揮をとる大会であり、“酒井監督が就任してチームが弱くなった”などとは絶対に言われたくはありませんでした。だから、“連覇を目指す”というよりも“酒井監督を勝たせたい、胴上げしたい”という意識のほうが強かったです。
 3年目はわずか21秒差で2位。それで生まれたのが「その1秒をけずりだせ」というスローガンです。それには、1人1人が横着せずに全力を出し尽くすという意味合いがあり、4年目の箱根駅伝ではみんながそれを体現してくれました。

 みんな、自分の区間を走り終えると、僕に電話をくれるんです。1区の宇野博之は「俺の仕事は最低限やった。あとは芦ノ湖で待っているね」とか。(2位との差を1分超まで広げた)3区の山本憲二からは「今日はお前が活躍する場所はないよ」とか。4年目の箱根駅伝はみんなに楽をさせてもらいました。
 初めて先頭でタスキをもらって、実は78分台で走れればいいや、ぐらいに考えていました。ところが、酒井監督は僕が浮ついているのを見透かしていたのでしょう。僕には滅多に言わないんですけど、運営管理車から熱い言葉が飛んできました。
 「いいか、柏原。今日は1区から4区の選手が頑張ってくれた。だから、今お前は先頭を走れている。今日はお前で締めるぞ!」
 その言葉でスイッチが入りました。ゾーンに入った1年目とも、また違う感覚でした。
 他の大学には失礼になりますが、「2位以下の全部の大学を繰り上げスタートにするつもりでいこう」とみんなとは話をしていました。僕らの目標は「圧倒して勝つ」ことでしたから。往路を終えて5分以上の貯金があっても、復路の選手には「攻めよう」と話をしていましたし、アンカーの齋藤貴志がゴールするまで気を引き締めていました。(10時間51分36秒の大会新記録で、2位には約9分の大差を付けて圧勝。)

 箱根駅伝は、良い意味でも悪い意味でも、人生を変えてくれました。
 1月3日のスポーツ新聞のほぼ全紙に自分の写真が載るわけじゃないですか。一夜にして柏原という存在が全国に知れ渡るわけです。もちろん認知してもらえるのはありがたいのですが、冒頭に申し上げた通り、僕は“速くなりたい”という思いが強かった。競技で好成績を残すことを突き詰めて行った結果、そうなっただけ。決して有名になりたかったわけではありません。当時は戸惑いも大きかったです。
 でも、時間はかかりましたが、今は箱根を走った経験を良い方向に転換できています。箱根駅伝シンポジウムで“箱根駅伝はどこに向かっていくべきか”、日隈広至さん(関東学生陸上競技連盟副会長)や上田誠仁さん(関東学生陸上競技連盟駅伝対策委員長)と議論を交わすことができたことは感慨深かったです。箱根駅伝を“より良いものにしたい”“盛り上げたい”という思いは、大会に携わる者みんな同じ。だからこそ、いろんな意見がかわされるのでしょう。戦争による中断がありながらも100回も続いてきた大会だからこそ、これからも続いていってほしいです。