◆ 村山喜彦アナウンサー
1964年生まれ。1988年日本テレビ入社。入社以来箱根駅伝中継に携わり、2007年第83回大会から2014年第90回大会まで放送センター実況を務めた。


 初めて移動中継車の実況を担当したのが1991年第67回大会でした。前年、順天堂大学の5連覇を阻止して14年ぶりに優勝した大東文化大学はエース実井謙二郎さんに5区奈良修さん、6区島嵜貴之さんはじめ前年優勝メンバーが7人の布陣、山梨学院大学には箱根駅伝史上初めての留学生ランナー、オツオリさんとイセナさんが3年生になってそろって出場、早稲田大学は1区武井隆次さん・2区櫛部静二さん・3区花田勝彦さんと期待の1年生3人が往路3区間を走ることになりました。期待と不安(私自身が…)が高まる中、その日を迎えました。
 元日は雨が降り、1月2日往路の朝もどんよりとした曇り空、(選手以上に私の方が)緊張の中レースがスタート、3号車は後方の選手の状況を伝える役目、実況を聞き、モニターを見ながら、1区武井選手が区間賞で早稲田がトップを快走していることを確認していました。2区も横浜新道に合流、残り3キロ、終盤まで早稲田先頭もどうやら櫛部選手がペースを落として遅れていったようでした。しばらく進むと中継車の横に臙脂のユニフォームが…、他の選手とは明らかにペースが違う、櫛部選手がうつろな表情で、今にも歩き出しそう…、中継所までのアップダウンが続く難所が続き、残り500m、蛇行しながらついには歩き出してしまい…、

 15km過ぎまで快調に走っていた選手がこのような状況になってしまう…信じられない姿、それでも歩みを止めない、倒れそうになりながらも何とか前に進もうとする姿に、当時の私は何をどう伝えればいいのか言葉が出てこない、「櫛部、頑張れ」と言っていた…ことしか覚えていません…。フラフラになりながらも戸塚中継所にたどり着いた櫛部選手に、箱根駅伝への、母校の襷を繋ぐことへの想いを教えていただいた…と今でも思う、私にとって忘れることのできないシーンです。

 2年後69回大会、私は鶴見・小田原中継所の担当、櫛部選手は1区を任され、序盤から素晴らしい走り、トップで鶴見中継所にやってきて、2区1年生の渡辺康幸さんに襷をリレー、見事な区間新記録の快走、直後の中継所でインタビューをした時の櫛部さんの朝日に照らされ輝く笑顔は今でもはっきりと覚えています。その年、早稲田大学は山梨学院大学との一騎打ちを制し12回目の総合優勝を成し遂げました。