◆ 多昌博志さん
1963年生まれ。1985年に日本テレビ入社。日本テレビが中継を始めた1987年第63回大会では戸塚中継所と小涌園の実況を担当。その後も移動中継車やフィニッシュ実況など、箱根駅伝中継に携わり続けた。


 1987年1月2日午前9時、私は戸塚中継所で、鶴見中継所担当白岩裕之アナウンサーの実況を真剣に聞き入っていました。その1時間後、初めて生で見る箱根駅伝を実況することになる当時23才=入社2年目の私。緊張する余裕すらなく、先輩の史上初の箱根駅伝中継所生中継を必死に学習していました。
 戸塚中継所放送終了後、振り返る間もなく用意したハイヤーに飛び乗り戸塚駅へ、在来線に乗り選手を追い越し小田原駅へ。そこでまたも用意したハイヤーに乗り小涌園中継点へ。そう!鶴見・小田原は白岩アナウンサー、戸塚・小涌園は私、当時は中継所2か所を一人のアナウンサーで担当していたのです!!
 小涌園中継点で選手の通過を実況。15大学を送り出した後、選手を追うように芦ノ湖畔ゴール地点へ向かい往路後の取材。往路中継は無事終了しましたが、私の1日は終わらず、またしても用意のハイヤーで三島に降り新幹線で東京へ。麹町本社に戻り高校サッカーハイライトの収録。1回戦全試合の編集上がりを待ちスタジオ収録。終了が日付の変わった1月3日0時半。今度はタクシーに飛び乗って深夜の東名高速を西へ。2時前に箱根ホテルのチェックイン。復路の準備を済ませ仮眠を取ると5時起床、小涌園中継点に向かい復路中継。その日も放送後本社に戻り、高校サッカー2回戦ハイライトの収録へ。
 翌年は鶴見+小田原、その後3号車~2号車と役割は変わりましたが、放送開始から5年間は箱根⇔高校サッカーという正月を過ごしました。「ちゃんと眠った記憶がない」これが中継開始当初の箱根駅伝の思い出です。
 今よりはるかに寒かった当時の正月、中継車に乗る際には、チョモランマ登頂スタッフが着用したという防寒着に身を包み中継していました。というのも、当時の中継車は現在のように完全に覆われた中継仕様の車両ではなく、小型トラックを改造したようなもので、アナウンサーや技術さんはほぼ吹きっさらし。言ってみればトラックの荷台で中継する様なものでした。箱根に向かう往路はもちろん、箱根をスタートする復路は凍える寒さ。しかし、都内に帰ってくると、ポカポカと初春の陽射しを直接受けて気温が上昇。9区に入ると汗だくでの中継だったことをいまだに記憶しています。
 今にして思えば、その分実際に走っている選手との精神的距離感が近い放送ができていたのかも。年齢も極めて近い選手達との仕事でもありましたし。

 正月といえば、寝る間がなかったり、寒かったり暑かったり、あっちこっちに移動していたり。それでも毎年正月は、恒例の二大学生スポーツ中継で「地獄のような天国」を味わいながら勤務していたことを誇りに思いつつ、懐かしい思い出として鮮明に残っています。
 最後に、あえてやり残したことを書き残すと、1987年中継開始時には中継エリア外だった平塚中継所を担当できなかったこと。当時放送がなかったのですから仕方がないとは思いつつ、出先の中継ポイントで唯一未経験。いつか平塚の様子を生で見てみたい!という小さな夢を叶えることを老後の目標としています。