◆ 赤﨑暁さん
1998年熊本県生まれ。中学時代はバレー部で、開新高校に入学し本格的に陸上を始める。高3時に記録が伸び、全国都道府県駅伝に出場した。拓殖大学に進学し箱根駅伝には4年連続で出場。4年時の上尾シティハーフでは1時間1分台の好タイムで日本選手トップ(全体2位)になっている。実業団の九電工に進みさらに力を付けて、23年10月のMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)で2位となり、24年パリ五輪日本代表に内定した。
小学校、中学校とバレーボールをやっていましたが、もともと走ることは得意でした。
父が陸上好きで、毎年元日は茨城にある母の実家で過ごし、その後箱根駅伝を現地まで観に行くのが恒例でした。2区だったり、10区だったり、父が観たい区間に連れて行かれました。父は東海大学出身ですが、タイムが足りなくて陸上部には入れず、市民ランナーとして走っていたそうです。なので、余計に箱根駅伝に思い入れがあったのかもしれません。
僕はというと、生で箱根駅伝を見て“すごいな”とは思いましたが、当時はそんなに興味がなかったですし、“箱根駅伝を走りたい”と思うこともありませんでした。
高校で本格的に陸上を始めてからは“箱根を走ってみたい”と思うこともありましたが、そこまで強い思いがあったわけではありません。高校3年の4月に5000mでやっと15分を切ったぐらいの実力だったので、“この先、上(大学や実業団)ではやっていけないな”とも考えていて、高校で区切りを付けるつもりでした。母からは自分の行きたい道に行っていい、と言われていたので、パンが好きだったこともあって、卒業後はパン工場で働こうと考えていました。
ところが、父と高校の先生からは猛反対され、大学に進むように説得されました。それで、僕の方が折れて、大学に進むことにしました。あの時、父と先生の反対がなかったら、今こうしてオリンピックのマラソン日本代表に内定していることもありません。今となっては笑い話ですが、就職することを止めてくれたことを感謝しています(笑)。
拓殖大学の岡田正裕監督(当時)に声をかけていただいた時はまだ(5000mの自己記録が)14分50秒台でしたが、大学進学を決めてから記録が出始めました。秋には14分24秒まで伸びました。それで、拓大に進学する同期のなかで持ちタイムが一番と聞いて、“もう少し上を目指して頑張ってみよう”という気持ちになりました。
大学に入学すると、1年間箱根駅伝に向けて練習を積んでいくことになります。
岡田監督の練習メニューは長い距離を走り込むことが多かったのですが、僕はもともとトラックよりもロードで長い距離を走るほうが好きだったので、そんなに苦ではありませんでした。それでも夏の阿蘇合宿は、1年目はきつかったです。20日間で800kmも走り込みますし、1年生はいろんな雑務もありましたから。
1年目の箱根駅伝(第93回大会で)では10区を任されました。上級生が走る区間というイメージを持っていて、その年に1年生で10区を走ったのは自分だけでしたが、箱根を走らせてもらえたことは本当にうれしかったです。
でも、往路を走りたかったという気持ちが強かったので、“まだまだだな”という思いも残りました。1年目からしっかり練習ができていたとはいえ、先輩たちに負けることが多かったので、先輩たちに勝って、今度こそ往路の主要区間を走りたいと思いました。
2年生では3区を走りましたが、順位をキープするのがやっと。最低限の走りしかできませんでした。順位を落とさなかったことを褒めてくれる人もいましたが、1つでも順位を上げたかった。自分のなかでは“何もできなかった”という思いが残りました。
3年生の時は1区で出遅れて(区間18位)、チームに迷惑をかけてしまいました。
今までで一番緊張したのがこの時。初めて“陸上が怖い”と思ってスタートラインに立ちました。号砲が鳴ってからも“自分がやらかせば、その先のプランが崩れてしまう”という緊張感の中で走っていました。チームは9位に入り2年連続のシード権を確保したものの、1学年上の先輩方が強い世代で過去最高順位がとれるメンバーが揃っていただけに、申し訳なさでいっぱいでした。しかも、大会後の報告会で 岡田監督が退任されると聞き、岡田監督にとって最後の箱根駅伝で、自分がやらかしてしまったことがショックでした。
この大会で炙り出された課題をどうやって克服していくかを毎日考えながら、しばらくは過ごしていました。
最後の箱根駅伝は、キャプテンとして、エースとして“しっかり走らなきゃいけない”という思いが強かったです。しかし、11月の上尾ハーフの後に足を痛めてしまったこともあって、箱根ではあまり良い走りができませんでした。(3区9位。チームは総合13位となり、シード権を逃した)2区のラジニ(レメティキ)が区間2位と好走し、本来であれば3区の僕が上位まで持っていかなければいけなかった。それなのに、順位を上げることができませんでした。最後の箱根でも後悔を残してしまいました。
大学の4年間、箱根駅伝では悔しさばかり味わいました。でも、もしうまくいっていたら、今の“やってやる”精神はなかったかもしれません。今こうやって、自分なりのやり方を見つけることができたのは、箱根駅伝をうまく走れなかったことが大きいと思っています。それに、1区を任された3年時の箱根駅伝の緊張感に比べれば、“今回のレースなんて…”と良い方向に考えられるようになりました。
パリ五輪の代表に決まってからは、その重みを感じており、五輪に限らず、その他のレースでもしっかり結果を残さなきゃいけないと思っています。そういう意味で、プレッシャーを感じてはいますが、自分らしさは見失いたくないと思っています。日本代表になったからといって、自分のモットーである“楽しむ”ということは忘れずに、今後も競技に取り組んでいきたいと思います。
(MGC写真:森田直樹/アフロスポーツ)