◆ 宇佐美彰朗さん
1943年5月31日、新潟県出身。中学時代はバスケットボール部、高校時代は軟式テニス部だったが、日本大学に入学し陸上を始める。2年時に頭角を現し、箱根駅伝に3回出場。3年時の第41回大会では9区区間新記録を樹立し、チームの総合優勝に貢献した。卒業後はマラソンで活躍し、1968年メキシコシティ、1972年ミュンヘン、1976年モントリオールと3大会連続でオリンピックに出場した。引退後は、指導者、研究者の道を歩み、現在も一般ランナーを中心に指導に当たっている。東海大学名誉教授。


私が初めて箱根駅伝を走ったのは大学2年生の時の第40回記念大会でした。ちょうど東京オリンピックが開催された1964年のことです。世間の目はオリンピックに向いていたので、節目の大会にもかかわらず、今ほど箱根駅伝への関心は薄かったように思います。
日本大学に入学し、1年目は静岡県の三島校舎で過ごしました。サークルに何を選ぼうか考えた時に、目についたのが陸上部でした。三島校舎の陸上部は同好会のようなものでしたが…。
そもそも、私は大学に入るまで陸上競技の経験はゼロ。中学時代はバスケットボール部で、高校時代は軟式テニス部だったので、陸上はど素人です。
それでも、卒業した巻高校(新潟)では創立記念日にロードレース大会が行われていて、私は高校3年間、1等賞でした。陸上部員は大会の世話役だったので、出場していなかったんですけどね(笑)。こんな経験があったので、大学に入学し陸上を始めることにしました。

陸上のことは何も知らなかったのですが、同級生に箱根町で生まれ育った西村という物知りがいて、いろいろと教えてくれました。彼が「陸上部に入って箱根駅伝を目指そうと思う。お前も一緒にやらないか」と誘ってくれたので、2年生になり水道橋(東京)に通うことになってからも、(東京の方の)陸上部に入ることにしました。
西村は一度も箱根駅伝を走れませんでしたが、彼が声をかけてくれなければ、私は箱根駅伝を知らないまま人生を歩んだと思います。
縁あって入部を許可してもらったものの、陸上の実績がない私は合宿所に入ることはできません。新潟から出てきた弟2人と妹と4人でアパートを借りて自炊生活を送っていました。
練習場所に行けば、長距離のグループが練習しているので、見よう見まねで付いていきました。ある日は、グラウンドに行くと誰もいなかったことがありました。選手たちは日本インカレに出場するために遠征していたのです。そんなことを知らされないほど、当初は誰にも相手にされませんでした。

秋ぐらいになると少しずつ走れるようになり、先輩からも時々声をかけてもらえるようになりました。印象に残っているのは“町を歩く時は1本の線の上を、足を落とさないように歩くんだ”とか“階段は二段ずつ上がるんだ”といったアドバイスです。その理由の説明はなかったのですが、私は通学の行き帰りなどに実直に実行しました。
普段のジョグも自分なりに工夫して取り組みました。徐々に脚力が付いてきて、少しずつ練習に付いていけるようになりました。

箱根駅伝の2カ月ぐらい前からは、選手の選考を兼ねた10マイルや2万mのトライアルが始まります。最初のうちは全然ダメでしたが、補欠を決める段階になって上位で走れるようになっていました。今考えると、主力の先輩が4〜5人、故障上がりで治り切っていなかったのだと思いますが、そんな運もありました。箱根駅伝の補欠になっただけでも新聞に名前が載るので、うれしかったですね。
12月30日頃には箱根の作戦会議があります。ケガをしている選手よりも宇佐美を走らせたほうがいいんじゃないか、という話になり、私は4区を走ることになりました。プレッシャーが大きいので、最後のミーティングで「代えてください」と言おうと思っていたのですが、結局勇気を出して口にすることができませんでした。でも、一生に1回も走れない者もいるんですから、一生懸命頑張って走ろうと思い直しました。

当時は中大が連勝中で、第40回大会は6連覇がかかっており、中大の4区にはキャプテンの岩下察男さんの名前がありました。
日大は1区から上位に付け、私はなんと先頭でタスキを受けました。事前の約束では残り3kmから発破をかけるとコーチに言われていたのですが、私の調子が良かったため、残り5kmから仕掛けることになりました。ちょうどペースが落ち始めた頃で、“1、2、1、2…”と号令をかけられると、力が回復していくのを実感しました。そのおかげで、岩下さんから逃げ切ることができました。
結局は、5区で中大に逆転を許し、28秒の僅差で6連覇を阻むことはできませんでした。“自分のところで頑張れば”という思いはチームのみんなが持っていたと思います。

私はトラックのスピードはありませんが、3年生になるとロードで目立ち始めました。フルマラソンにも挑戦しました。素人の私からしたら、箱根駅伝の20kmもマラソンの42kmも、どちらも長いなあという感覚は同じでしたが(笑)。
3年生の箱根駅伝(第41回)は、中大の連勝を阻むべく、チームは盛り上がっていました。でも、日大にはそんなにポイントゲッターがいるわけではありません。優勝への期待はあったけれど、1日目が終わるまでは半信半疑だったと思います。ところが、日大は2区で先頭に立つと、独走し往路優勝を果たしました。
私は9区を言い渡されていました。当時はラジオ中継がありましたが、全区間で放送されていたわけではなく、昼ごろから中継に入りました。復路だと私が走る9区あたりから。「さあ、放送に入るぞ」と声をかけられて、じーんと来たのを覚えていますね。
私は、先頭でもらったタスキを守るだけ。スピードがないから、一定のペースで走り切ることを考えて走りました。そういう走りがマラソンでの私の持ち味にもなっていきました。そして、トップを守り抜くと(区間新記録で区間賞を獲得)、アンカーも頑張ってくれて、久々に総合優勝をすることができました。

4年生の時は少し欲をかいてしまいました。
最後の箱根駅伝(第42回)は2区を担うことになりましたが、同じ区間には順天堂大学の天才・澤木啓祐選手がいました。澤木選手は2位で出発、私は52秒遅れて3位でスタートしました。澤木選手はトラックではピカイチでしたが、箱根駅伝では区間賞を取っていなかったので、勝手に道路に苦手意識があるのかなと考えていたんです。それで横浜駅までに追いつこうと考えていたのですが、序盤で全く見えなくなっていました。彼が韋駄天ぶりを発揮し区間新記録で先頭に立つと、順大は初優勝を果たしました。日大は2位。悔しい思いを味わいましたが、後に「マラソンはやらない」という澤木選手の談話を聞いて、逆に私はマラソンしかないなと思ったものです。

箱根駅伝は、何の取り柄もなかった私に神、仏が授けてくれたものに気づかせてくれました。後にオリンピックにマラソンで3回出場することができたのですが、箱根駅伝を目指したことで絶対的な土台を築くことができました。トラックでスピードを磨くトレーニングにシフトしていたら、絶対に壊れていたと思います。箱根駅伝があったから、無理することなく、徐々に距離を伸ばすようなイメージで競技者生活を送ることができたと思っています。箱根駅伝を走った経験は私にとって誇りです。
(1枚目の写真:アフロ)