春の霧が里山を包む。
霧の渦はどんどん大きくなり、田んぼや畑、母屋や役場、私までも優しく包む。
そんな春の霧はほんのり甘く、私の肌を潤してくれる。
 太陽に輝く里山も綺麗だけど、霧に包まれる里山もまた趣があって、美しい。

 季語では春の霧のことを「霞(かすみ)」、秋の霧のことは、「霧(きり)」と言うらしい。中学・高校の古文にもよく「霞たなびく」というフレーズが出てきたことを覚えている。でもその当時、古文嫌いの私はあまりこの言葉に惹かれることはなく、むしろ受験勉強の1つで「霞」=「霧」とだけ覚えていた。
 でもよくよく考えると、なぜ、春の霧だけは「霞」という特別な名前を付けたのだろう。
秋の霧は「霧」なのだから、同じ霧で良かったのではないだろうか。そんなことを思いながら、じっと春霞たなびく里山を眺めていた。




 そのうち春の霧が「霞」と呼ばれる理由が分かった気がした。それは春の霧は、じっと眺めてしまうほど美しいからではないだろうか。新緑の淡い緑の中に浮かぶ白い靄は他の季節では見られない春限定の美。
秋は秋でいいけれど、やはり白は緑がバックのほうが映える気がする。白と緑がうまく重なりあい、なんともいえない優しい色がかもし出される。昔の人はこんな景色に惚れて、「霞」という言葉をつけたのではないだろうか。

 そんな霞は太陽の光と共にさっと消えてゆき、まばゆいばかりの日差しが指してきた。もう少し、見たかった。夏が来たら霞が見れなくなると思うとなんだか寂しい。こんな気持ちになるのも霧ではなく霞だからだろうか。
 その代わりに現れたのは、同じ白でもかわいい白の仔山羊達。仔山羊3匹もみるみる大きくなり、毎日ぴょんぴょん跳ねて遊んでいる。さっと消えた霞のようにあっという間に大きくなるようでなんだか寂しい。

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