◆ 塩尻和也さん
1996年群馬県生まれ。中学時代はソフトテニス部で、伊勢崎清明高校に入学し陸上競技を始める。3000m障害で頭角を現し、インターハイは2年生で5位、3年生で優勝を果たす。世界ジュニア選手権にも出場し、当時の高校歴代2位の好タイムをマークした。順天堂大学へ進学し、2年時にはリオデジャネイロ五輪出場を果たす。箱根駅伝では4年連続で花の2区を任され、4年時には当時の日本選手最高タイムとなる1時間6分45秒で走った。実業団の富士通に進み、2019年のアジア大会は3000m障害で銅メダルを獲得。23年の世界選手権ブダペスト大会には5000mで出場した。


 高校で陸上競技を始める前までは、箱根駅伝はお正月の風物詩ぐらいの認識でした。高校2年の後半に進路を考え始めたときに、ようやく箱根駅伝を意識するようになりました。といっても、高校(伊勢崎清明高校・群馬)が強豪校でなかったので、大学生になった自分がどんなレベルの競技者にとか全く実感を持てず、大学へ進学するなら1度ぐらいは箱根駅伝に出場できたらいいなという程度の気持ちでした。
 高校生の時は、都道府県対抗駅伝で1区を走り、群馬県チームは総合3位という成績を残し、チームとして駅伝に挑む楽しさを実感できました。
(ちなみに、塩尻さんが通っていた伊勢崎清明高は陸上部員だけで駅伝メンバーを組めず、1年、2年時は他校との合同チームで県高校駅伝にオープン参加。3年時は塩尻さんの記録を正式に残すために、他の部活の生徒を募って出場した)

 順天堂大学へ入学すると、箱根駅伝は1年間の集大成のような大会で、自分が思っていた以上に大きな大会であることを知るようになりました。チームとして年間を通して同じ目標を持ち、駅伝のメンバー争いをするという経験は初めて。特に4年生の先輩方の箱根にかける思いがどれほど大きいか、身に染みて実感しました。
 “チームで駅伝をしたい”という思いとは別に、トラックでは3000m障害をやりたいと思っており、「どちらも(駅伝も3000m障害も)やっていこう」と言ってもらえたことが、順天堂大学へ進学するきっかけでした。距離は大きく異なり、駅伝と3000m障害とを両立させるのがいかに大変か、後になって思い知るのですが。

 箱根駅伝は1年目(第92回大会)から2区を任されました。最初に2区を言い渡された時は“自分が!?”という思いでしたが、逆に、まだ走ったことがない分、気楽に走ることができました。(区間5位で4人抜きの活躍を見せ、チームも総合6位だった)
 今振り返ると“よく走ったな”ですが、当時は“とてもきつかった”という思いが大きかったです。
 2区の難所というと一般的には権太坂が知られていますが、いざ走ってみると“戸塚の壁”と言われている最後の3kmの上りがとてもきついんです。あまりにきつくて“二度と走りたくない”と思いましたが、結局、4年連続で2区を走ることになりました。
 実際に走ってみて、箱根駅伝の注目度の高さを改めて実感しました。沿道からの声援は、それまで走った駅伝とは比べ物になりません。五重六重の人垣から“声援だけでこんなに押されるような感覚があるのか”と思うほどの圧力を感じ、箱根駅伝のすごさを体験しました。

 2年生の時には3000m障害でリオデジャネイロ五輪に出場しました。
 学生の時から、3000m障害はもちろん、5000mも10000mも駅伝も、どの種目もしっかり練習していけば他の種目にも生きると思って練習に励んでいました。
 駅伝で20kmを超える距離を走るとなればスタミナが必要です。駅伝のためにスタミナを強化するトレーニングは、3000m障害にも生きたと思います。距離こそ短いんですけど、スタミナが付いたことでスピードに余裕を持って走れました。逆に、3000m障害に必要な脚力は、アップダウンのある駅伝の走りにもつながっていると感じます。
 学生の頃は、1つの種目を極めるというよりも、自分自身の全体的なレベルアップの時期でした。今はなかなか20kmを超えるレースを走る機会はありませんが、学生時代に箱根駅伝を目指して長い距離を走れる体作りを行ったことは、今でも競技に大きく生きています。

 4年生の箱根駅伝(第95回大会)は、三代直樹さん(順天堂大学OB、現・富士通陸上競技部長距離ブロック長)が持つ2区の日本選手最高タイムの更新を目標にしていました。3年生の時にも多少は三代さんのタイムを意識していましたが、前半に突っ込みすぎて、後半にペースダウンしていました。その失敗があったので、4年目は後半もしっかり走れるように、前半を少し抑えめに走りました。(1時間6分45秒の日本選手最高タイムを更新し、区間2位。19位から9位に押し上げる10人抜きの活躍を見せた)
 目標タイムを無事にクリアできたことはもちろんうれしかったんですが、襷をつないだ時に“ほっとした”というのが一番の感情でした。
1年生の時にも感じたことですが、やはり4年生は最後になる箱根駅伝に対する思い入れは特別です。もちろん優勝なり上位入賞なりできれば良かったんですが、当時のチーム状況的にはシード権をしっかり獲ることが重要でした。2区でミスなくつなぎ、結果的にシード権を後輩たちに残すことができたのが一番良かったと思います。(チームは8位となり、2年ぶりにシード権を奪還した)

 欲を言えば、4年間で箱根駅伝の区間賞を獲りたかった。でも振り返るたびに、箱根駅伝は思い出深い大会になっています。今でも箱根駅伝の走りを覚えていて声をかけてくれる方がいらっしゃいます。たくさんの人に自分の走りを見てもらい、そこでの良い走りが人々の記憶に残っているのはうれしいことだなと思います。
 記録という点では、三代さんのタイムは20年(日本選手最高タイムとして)残りましたが、私の記録は次の年に更新されました。(第96回大会で相澤晃選手(東洋大学OB、現・旭化成が)が1時間5分57秒で走った)
 その後も1時間6分台で走る選手は増えましたが、今私がそのタイムで走れるかと言われたら、なかなか難しいと思います。塗り替えられはしたものの、自分の中では“あの時にあのタイムで走れた”という勲章として残っています。
(リオ五輪の写真:日刊スポーツ/アフロ)