ワシントンナショナルギャラリー展

新国立美術館

展示会紹介

ごあいさつ

vol17

展覧会の最終章「ポスト印象以降」の作家作品を集めた、最後の展示室。ここでセザンヌの《『レヴェヌマン』紙を読む画家の父》に遭遇して、思わず「お父さん!」と心の中で叫んでしまった。

実は今から3年前、横浜美術館他を巡回した「セザンヌ主義 父と呼ばれる画家への礼賛」という展覧会で、公式ガイドブックを書かせていただいたことがある。セザンヌのことはその時にひと通り調べたのだが、彼と父ルイ=オーギュストとの関係を物語る初期の重要作としてよく紹介されるのがこの作品だ。

もともとはイタリア系と言われるルイ=オーギュスト・セザンヌは、南仏エクス=アン=プロヴァンスで帽子屋を経営して成功をおさめ、エクス初となる銀行の共同経営者となった。ただし、エクスは古くからプロヴァンス伯爵領として栄えた保守的な街だったため、セザンヌ家のような新興の実業家は、あまりよく思われていなかったらしい。そんなこともあってか、ルイ=オーギュストが息子のポール(・セザンヌ)に望んだのは、銀行を継ぐか、誰からも尊敬されるお堅い職業で身をたてること。そこでセザンヌは地元エクス大学の法科に入学するのだが、結局、画家への夢を断ち切れず、家族とのひともんちゃくの末、大学を中退してパリに向かった。

この父ルイ=オーギュスト、手元の資料を数冊読んだだけでもひどい言われようである。すなわち「高圧的」、「強権的」、「独裁的」な「暴君」で、芸術家になりたいという息子の夢をまったく理解できない実利一辺倒の堅物オヤジ、という印象。セザンヌ自身、1866年、27歳の時に、ピサロに宛てて「私は、ここで家族と暮らしています。私の家族はこの世で最も嫌な連中です」などと書いていたりするので、父親のことが相当うっとうしかったのは確かだろう。

くだんの《『レヴェヌマン』紙を読む画家の父》は、まさにこの手紙の年に描かれている。堂々たる大画面や、パレットナイフを使った描き方など、さまざまなポイントはあるものの、この作品でよく言われるのは、『ル・シエークル』という保守的な新聞を定期購読していたはずのルイ・オーギュストが、『レヴェヌマン』という急進的な新聞を読んでいることだ。これは、セザンヌの親友エミール・ゾラが官展(サロン)の批評記事を『レヴェヌマン』に連載していたことから、「保守的な父親に自分の芸術を認めてほしいという願望の表れ」とされることが多いのだが、図録を読むと「こうした新聞名の変更は、前衛芸術にほとんど理解を示さない父親を嘲笑する、故意に挑発的な行為であった」とする研究もあるらしい。

まあ細かいことは研究者にまかせるとして、そもそも、そんなに仲が悪ければ、肖像画を描くためにポーズをとったりとらせたりなんてこと自体あり得ないんじゃないの? と思うのだが、いかがだろうか? たとえば、セザンヌは、モデルに長時間同じ姿勢をとらせることで有名で、ポーズをとる画商のヴォラールに「動くな! りんごは動かないぞ」とどなりつけたというエピソードなどはよく知られている。どんな理由があろうと、自分の意に反して絵を描き続ける息子のために、そこまで老体に鞭打ってくれる父親なんて珍しいだろうし、ましてやそんな父親を「嘲笑する」目的でセザンヌがポーズをとらせたとしたら、それこそ「人間としていかがなものか?」というレベルである。

私が、一般的な美術書の「ルイ=オーギュスト悪役説」に疑問を抱いたのは、セザンヌ家が1859年から99年まで所有した、ジャ・ド・ブッファンのお屋敷に行った時のことである。画家になりたいという息子に、ルイ=オーギュストが壁画を描くことを許したという部屋も残されている(現在、壁画は切り取られているが)そのお屋敷は、エクス郊外の広大な緑の中に現在も建っている。実際私も、日本の展覧会で、セザンヌが20代の時に描いたというなんとも乙女チックな壁画の一部をみたことがあるのだが、改めてパンフレットを読むと、ルイ=オーギュストがこのお屋敷の屋根を直して、セザンヌのためにアトリエを改築したという記載があり、これにはとても驚いた。なぜなら、このアトリエが改築されたと推定されるのは、1881年から85年。彼の息子は、もう40歳を過ぎた、立派なおじさんなのである!

よく考えると、セザンヌが画家になることを、ルイ=オーギュストが具体的に邪魔したことはあったのだろうか? 息子がパリに行きたいと言った時には、しぶしぶながらも送り出しているし、息子と離れて住んでいる時にはちゃんと仕送りもしてくれた。途中、セザンヌが隠していた内縁の妻と子供の存在を知り、仕送り額を減らしたりもしているが、そんな事実が発覚すれば、仕送りは打ち切り、即勘当、となる父親だっているだろう。ルイ=オーギュストは、セザンヌに莫大な遺産も遺している。事実、1886年の父の死後その遺産を手にしたセザンヌは、エクスに引きこもって死ぬまでサント=ヴィクトワール山やら水浴やらを描き放題、自らが目指す芸術の道に邁進するのである。



不器用な父ではあったかもしれないが(息子のセザンヌは、その上を行く変人だったが)、状況証拠を積み上げて考えれば、ルイ=オーギュストはセザンヌを愛していた。セザンヌにとっては多少、口うるさく、ひとりよがりな「暴君」だったとしても、そんなオヤジは、いつでもどこにでもいるものだ。今回本物をたっぷりと鑑賞する機会に恵まれた《「レヴェヌマン」紙を読む画家の父》を観るにつけても「けっこういいお父さんじゃないの」と思わずにはいられないのである。


アート・ライター。現在「婦人公論」「マリソル」「Men’s JOKER」「ぴあムック」などでアート情報を執筆。
アートムック、展覧会音声ガイドの執筆も多数。