2011/3/ 4
【レンブラントハイスって、こんな所】編 は コチラ 【レンブラントの生まれた町・レイデン 】編 は コチラ
1631年、レンブラントは25歳で大都市・アムステルダムへ移り住みました。当時のオランダは、カソリック以外の宗教を認めないスペインからの独立を目指し宗教的に寛容で、国王を立てない共和制の国づくりをしていたため アムステルダムはあらゆる人や宗教、モノやカネが集まる、大変活気のある街でした。今でいう、ニューヨークのような感じでしょうか(ちなみに、ニューヨークは 元々はニューアムステルダムでしたもんね)。 世界との貿易で富を蓄えたアムステルダム市民は自分たちの富と名誉の象徴として、肖像画を注文するようになります。なかでも「集団肖像画」といって組合(ギルド)や自警団、名士たちがお金を出しあって1つの絵の中で全員の肖像画を描いてもらう、という注文が大流行しました。カメラも写真もない時代、記念の集合写真の役割を果たしていたのでしょう。 1632年、レンブラントは、《テュルプ博士の解剖学講義》という集団肖像画を描きあげ、一躍有名になります。向かって右側で、黒いマントをまとって腕の筋肉をつまみ上げているのがニコラース・テュルプ博士です。現在、この作品はオランダ・ハーグのマウリッツハイス美術館に所蔵されています(本展には出展されません)。
それまでの集団肖像画はモデルとなる人物たちが横一列にならんだり、全員が正面を向いていたりと、平等な扱いのために 不自然だったり、平面的な印象のものが多かったそうです。しかし、レンブラントの《テュルプ博士の解剖学講義》はめずらしい光景を好奇心で覗きこむ表情やグロテスクな光景に目をそらす表情、文献と見比べるしぐさなどが、まるで瞬間を切り取ったかのように、いきいきと描かれていました。この作品を機に、レンブラントは集団肖像画の上手な画家として、一躍有名になっていきます。
ところで この「解剖学講義」って、何だと思いますか?今なら、医学部の授業かと思いますがじつは当時、解剖学講義は オランダで年に一度行われる、知的刺激を満たすイベントの1つだったそうで、年に一度、死刑囚の遺体をシアター形式で解剖し、それを入場料を支払った名士たちが見学したものが「解剖学講義」だったそうです。 そのテュルプ博士の解剖学講義が実際に行われたのが、今もアムステルダムにある、この建物。
De Waag(計量所)です。アムステルダムでは、旧教会につぐ2番目に古い建物です。ここは元々、街の防壁として15世紀後半に建てられましたがその後、建物の1階は、貿易や商取引を行う上で大切な物の重さを正確にはかるための計量所として使われるようになりました。さらに、アムステルダム市が成長すると、この建物は「ギルド」と呼ばれる職業別組合に使わるようになり、中央には、解剖を行う手術室(シアター)が作られ、年に1度、講義が行われたということです。 現在は、1階はインターネットカフェ、2階以上はNGOの事務所になっていて外科医ギルドの部屋を見学することはできませんが今回、特別に見せていただきました。
この天井の高い部屋で、解剖を行うステージと階段式の見学席が作られ描かれたような解剖学講義が行われたとのことです。天井に見える紋章は、ギルドのそれぞれのメンバーを表す紋章だそうです。 ちなみに、解剖をしているニコラース・テュルプ博士ですが博士の娘マルガレータ・テュルプは、今回の出展作品 《ヤン・シックス》 のモデルでレンブラントの長年の友人でありパトロンでもあるヤン・シックス氏と1655年に結婚しています。
晩年にはアムステルダム市長も務めたヤン・シックス氏。その妻の父親が、テュルプ博士・・・。レンブラントの代表作の登場人物がその後、義理の親子になっていた・・・という豆知識でした。 あと、《旗手(フローリス・ソープ)》 のモデルフローリス・ソープ氏は、ヤン・シックス氏の隣に住んでいたそうですよ。
こうしてみると、当時のレンブラントの交友範囲が垣間見られますね!
つづく
【サスキアの墓・レンブラントの墓を訪ねて】編は コチラ