2011/5/13
【レンブラントハイスって、こんな所】編 は コチラ
【レンブラントの生まれた町・レイデン 】編 は コチラ
【レンブラントを一躍有名にした「解剖学講義」って?】編は コチラ
「1642年」はレンブラントにとって忘れることのできない年でした。
大作 《夜警》 が完成した年であると共に、
資産家である 最愛の妻・サスキアが亡くなった年でもあるのです。
1639年から住み始めた アムステルダムの豪邸(現在のレンブラントハイス)に、
サスキアはわずか3年しか住んでいませんでした。
サスキアは没後、アムステルダムの中心地にある「旧教会」に葬られました。
アムステルダムで最も古い教会といわれる旧教会は、
レンブラントが生きていた当時でも、歴史ある教会でした。
ここにサスキアの墓石が残されています。
そして、立派な教会にサスキアを葬ったレンブラントが その後、どうなったのか?
続きをみてみましょう。
1642年に完成した《夜警》は、
それまでの画一的な表情の集団肖像画の常識を覆す大作でした。
しかし、お金を分担して払った依頼主たちは
自分の顔がちゃんと描かれているかの方が大事でした。
当時のオランダの画家は、芸術家という面と同時に、
今で言うと「町の写真屋さん」的な存在でもあったのです(写真機の発明は1826年)。
注文主の意向よりも、自身の芸術性を追求を優先するレンブラントの姿勢は、
賛否両論だったようです。
ただ、専門家の方のお話をいろいろ伺うと、
いわゆる晩年もレンブラントの名声はそれなりにあって、
肖像画の注文はなくなってはいなかったようです。
《旗手(フローリス・ソープ)》 は1654年、レンブラントが48歳の時の作品。
地元の名士の肖像画を描くこともありました。
それでも後半のレンブラントは、注文されたものを描くだけではなく
次第に、自身の何かを追求するかのような、
心の中にほんのちょっとだけ残る かすかな光を見出すような作品づくりに没頭していきます。
《フェニックスあるいは倒された彫像》は、
破産後の1658年=52歳頃の作品です。
彼の心が倒された彫像に表れているのか、不死鳥・フェニックスに表されているのか、
考えながら見るのも興味深いですね。
私生活では、乳母ヘールチェに婚約不履行で訴えられたり、
2番目の妻の役割を果たしたヘンドリッキェが婚姻関係にないと教会に呼び出されたりと、
女性スキャンダル続きとなったレンブラント。
それでも、20歳年下のヘンドリッキェは、レンブラントの元を離れようとはしませんでした。
そんな彼女の肖像画 《ヘンドリッキェ・ストッフェルス》。
その瞳が示すものは、恥じらいか、愛情か、はたまた不安か、安堵か・・・。
実際に肉眼でこの作品をよく見てみると
じつに深い表情をしているではないですか・・・!
そんな若くて献身的だったヘンドリッキェもまた、
レンブラントが57歳のときに、彼を残して先に亡くなってしまいます。
その後、唯一成人した最愛の子ティトゥスにも、62歳のときに先立たれてしまったレンブラント。
・・・彼自身は1669年10月4日に
63歳で、その光と闇に満ちた生涯を終えました。
最期に暮らしていた借家跡地はアムステルダムの中心から ちょっと離れた所にあり、
今は そのことを示すレリーフがあるのみでした。
レンブラントは、アムステルダムの中心からやや西にある、
その名も「西教会」という敷地内の、どこかに埋葬されているそうです。
つまり、亡くなった時には共同墓地に埋められたので、
巨匠の埋葬場所は正確にはわかっていない、と・・・。
それではあんまりだ、ということで、西教会には
生誕400年を記念した2006年に、教会内にレリーフが掲げられました。
地方都市の裕福な家で育ち、若くして才能を発揮して都会で移住し、
莫大な財産をもった妻を得て、上流階級への仲間入りを果たして豪邸に住み、
国内外に名声がとどろく画家になり、
身内を次々と失い、破産してすべてを手放し、
やがては共同墓地のどこかに葬られたレンブラント。
それでも最後まで作品を作り続けることを諦めなかった彼にとって
闇を知るものだけに見える光を表現することこそ、
まさに真骨頂だったのかもしれません。
そんな天才が手がけた版画と絵画、最後までじっくりとお楽しみください!
2011/4/24
2011/3/ 4
【レンブラントハイスって、こんな所】編 は コチラ 【レンブラントの生まれた町・レイデン 】編 は コチラ
1631年、レンブラントは25歳で大都市・アムステルダムへ移り住みました。当時のオランダは、カソリック以外の宗教を認めないスペインからの独立を目指し宗教的に寛容で、国王を立てない共和制の国づくりをしていたため アムステルダムはあらゆる人や宗教、モノやカネが集まる、大変活気のある街でした。今でいう、ニューヨークのような感じでしょうか(ちなみに、ニューヨークは 元々はニューアムステルダムでしたもんね)。 世界との貿易で富を蓄えたアムステルダム市民は自分たちの富と名誉の象徴として、肖像画を注文するようになります。なかでも「集団肖像画」といって組合(ギルド)や自警団、名士たちがお金を出しあって1つの絵の中で全員の肖像画を描いてもらう、という注文が大流行しました。カメラも写真もない時代、記念の集合写真の役割を果たしていたのでしょう。 1632年、レンブラントは、《テュルプ博士の解剖学講義》という集団肖像画を描きあげ、一躍有名になります。向かって右側で、黒いマントをまとって腕の筋肉をつまみ上げているのがニコラース・テュルプ博士です。現在、この作品はオランダ・ハーグのマウリッツハイス美術館に所蔵されています(本展には出展されません)。
それまでの集団肖像画はモデルとなる人物たちが横一列にならんだり、全員が正面を向いていたりと、平等な扱いのために 不自然だったり、平面的な印象のものが多かったそうです。しかし、レンブラントの《テュルプ博士の解剖学講義》はめずらしい光景を好奇心で覗きこむ表情やグロテスクな光景に目をそらす表情、文献と見比べるしぐさなどが、まるで瞬間を切り取ったかのように、いきいきと描かれていました。この作品を機に、レンブラントは集団肖像画の上手な画家として、一躍有名になっていきます。
ところで この「解剖学講義」って、何だと思いますか?今なら、医学部の授業かと思いますがじつは当時、解剖学講義は オランダで年に一度行われる、知的刺激を満たすイベントの1つだったそうで、年に一度、死刑囚の遺体をシアター形式で解剖し、それを入場料を支払った名士たちが見学したものが「解剖学講義」だったそうです。 そのテュルプ博士の解剖学講義が実際に行われたのが、今もアムステルダムにある、この建物。
De Waag(計量所)です。アムステルダムでは、旧教会につぐ2番目に古い建物です。ここは元々、街の防壁として15世紀後半に建てられましたがその後、建物の1階は、貿易や商取引を行う上で大切な物の重さを正確にはかるための計量所として使われるようになりました。さらに、アムステルダム市が成長すると、この建物は「ギルド」と呼ばれる職業別組合に使わるようになり、中央には、解剖を行う手術室(シアター)が作られ、年に1度、講義が行われたということです。 現在は、1階はインターネットカフェ、2階以上はNGOの事務所になっていて外科医ギルドの部屋を見学することはできませんが今回、特別に見せていただきました。
この天井の高い部屋で、解剖を行うステージと階段式の見学席が作られ描かれたような解剖学講義が行われたとのことです。天井に見える紋章は、ギルドのそれぞれのメンバーを表す紋章だそうです。 ちなみに、解剖をしているニコラース・テュルプ博士ですが博士の娘マルガレータ・テュルプは、今回の出展作品 《ヤン・シックス》 のモデルでレンブラントの長年の友人でありパトロンでもあるヤン・シックス氏と1655年に結婚しています。
晩年にはアムステルダム市長も務めたヤン・シックス氏。その妻の父親が、テュルプ博士・・・。レンブラントの代表作の登場人物がその後、義理の親子になっていた・・・という豆知識でした。 あと、《旗手(フローリス・ソープ)》 のモデルフローリス・ソープ氏は、ヤン・シックス氏の隣に住んでいたそうですよ。
こうしてみると、当時のレンブラントの交友範囲が垣間見られますね!
つづく
【サスキアの墓・レンブラントの墓を訪ねて】編は コチラ
2011/2/10
【レンブラントハイスって、こんな所】編 は コチラ
レンブラント・ファン・レインは1606年、オランダの中西部の町・レイデンで生まれました。レイデンはアムステルダム中央駅から鉄道で約40分。運河と学生が多い、穏やかで美しい町です。オランダで最も古い大学であるレイデン大学があり、江戸時代にオランダ政府が派遣した商館医・シーボルトが帰国して、この大学で教鞭をとりました。今でもレイデン大学は、ヨーロッパの日本研究の拠点になっています。 そのシーボルトから さかのぼること2世紀以上前に、レンブラントは製粉業を営む裕福な家庭の8番目の子供として生まれました。生家跡地には、彼の名を刻んだプレートが掲げられています。 「レンブラント・ファン・レインは1606年7月15日に ここで生まれた」 と書かれています。
お気づきの方も多いと思いますが、「レンブラント」はファーストネームです。ピカソやゴッホ、モネ、ルノワール、フェルメールなど多くの画家はファミリーネーム=苗字で呼ばれていますがレンブラントは作品の署名にも Rembrandt と記したようにファーストネームで広く知られることを望みました。これは彼が憧れたルネサンスの巨匠たち・ラファエロやミケランジェロ、ティツィアーノにあやかってファーストネームだけで署名することで彼らに近づきたかったのではないか...といわれています。面白いですね。
生家跡地の前にある小さな公園は Rembrandtplein(レンブラント公園)と命名されていてイーゼルには自画像、そしてそれを見つめる少年の像がありました。また公園横の川の対岸には古い木製風車を再建した"プット風車"があります。
レンブラントは、7歳でラテン語学校に入学し、ラテン語とオランダ語の読み書きを習いました。写真のギザギザ三角の屋根の、オレンジ色の煉瓦の建物が、その学校跡地。
その後、14歳でレイデン大学に入学したものの、数ヶ月で辞めてしまい、地元の画家に初めての弟子入りをします。この後、アムステルダムで別の画家の工房で修行をした後、またレイデンに戻って、自身の工房を持ち、出展作品の 《音楽を奏でる人々》 や 《アトリエの画家》 を描きました。 ところで、このLeidenの日本語表記ですが「ライデン」とも「レイデン」とも書かれています。本当の発音からすると「ラ」と「レ」の中間なのだそうですが日本語では「ラ」か「レ」としか表記できないのでどちらもアリなようです。本展では、監修者の国立西洋美術館シニア・キュレーターの幸福輝氏の表記にならって、「レイデン」としております。
つづく
【レンブラントを一躍有名にした「解剖学講義」って?】編は コチラ
2011/2/ 4
オランダ・アムステルダムにある「レンブラントハイス」は
レンブラントが最盛期の約20年間、
実際に住んでいた家を使って当時の暮らしを再現し、
レンブラントの版画作品とともに展示している美術館です。
写真中央の、緑とオレンジの窓戸があるのが実際の家で
入口は向かって左側のビルになります。
レンブラントは1639年に この家へ引越し、妻・サスキアと暮らしながら
代表作《夜警》や さまざまな作品を生み出しました。
現在、レンブラントハイスで見られる
内装やコレクション品は
当時のものを忠実に再現したものです。
1656年にレンブラントが破産した際に、
資産目録が作られており、
どの部屋に何があったかについて
記録されていました。
レンブラントハイスではこの目録や
実際に発掘されたものなどを元にして
当時の様子を再現しました。
館内にあるほとんどの物は
レプリカですが、
1階の玄関ホールの棚だけは、
レンブラントの2番目の妻的存在の
ヘンドリッキェが使っていたものだそう。
地下には台所があります。
1日中、食べ物を温めるために
室温が高かった台所。
奥に見えている、こげ茶色の箱で
白い布団が見えているのは
なんと、ベッドです。
台所にベッド。しかも小さい...。
17世紀のアムステルダムでは、
「まっすぐ横になって眠ると
悪魔に入られて病気になる」
という迷信があり、
上半身を起こして寝ていたそうで
ベッド全長は
とても短く作られています。
1階の玄関ホールには、
こんな風にたくさんの絵が
飾られていたそうです。
これは、富裕層とつきあいが
増えていったレンブラントが
当時のお金持ちの
インテリアを真似たからだとか、
画商として絵を展示するためだとか、
いろいろな理由があるそうです。
向かって右手には
先ほどのヘンドリッキェの
棚も見えますね。
レンブラントハイス内の
上層階にあるアトリエには
窓からの陽の光が
ふんだんに取り込まれていました。
秋冬のオランダでは
日差しはとても貴重です。
ここでレンブラントは
光と影を観察したり、
モデルにポーズをとらせたり
お弟子さんを指導したり
していたのでしょうか。
上の写真のアトリエの
片隅にあった絵具のテーブル。
当時、絵具は
もちろん手づくりでした。
動物の骨の炭や鉱物などを
細かく すり潰したものや
顔料を油に混ぜて
一色一色、つくっていたそうです。
レンブラントの油彩は
絵具の塗り方にも
年代によって特徴が
あるようですよ。
アトリエの隣りには、
レンブラントが蒐集した物を
陳列しておく部屋がありました。
彼は生涯、オランダ国外へは
行きませんでしたが、
貿易に沸くアムステルダムには
海外から
たくさんの人と物が集まっていて
市場やオークション等で
さまざまな異国の物を
買い集めることができました。
中には動物の剥製や
異国の民族衣装、武具、
壷、石膏像など
あらゆるものがありました。
下の この写真も、蒐集物の部屋にあるコレクションの一部。
当時、遠い海から
もたらされる貝殻は
1つの値段で家1軒が買えるほど
非常に高価なものだったとか。
本展の出展作品に
《貝殻》の版画がありますが
これはレンブラントの唯一の静物画。
この《貝殻》、じつは自然界では
ほとんどの貝は右巻きなのですが
版画では左巻きになっています。
それは...銅版画では描かれた図が
左右反転するから!
レンブラントは光の反射や
貝の3D感を版画で描くことに
熱心で、巻き方の正確さには
関心がなかったようです。
レンブラントハイスは、
彼のエッチング版画のコレクションを
ほぼ全て所有しており、
時期に応じてその一部を
展示しています。
同じ作品でも、初版、第2版...と
"ステート"が変わったり
刷られた紙が違ったりすると
どんどん印象が変わってくるのも
見逃せませんね。
展示室には非常に貴重な
オリジナルの銅版も
展示されていました!
(本展覧会にも2点展示されます)
また、版画を
実際に刷る過程が見られる
デモンストレーションも
毎日、行われています。
左手前が銅版のインクを
紙に写すためのプレス機です。
上には刷り終わった版画が
洗濯物のように干されているのが
見えますね。
銅版にインクを塗り、ふき取って、
プレス機にかけるのは
1つ1つがとても繊細な作業で
レンブラントが いかに
この作業を楽しんでいたかに
思いを馳せることができます。
レンブラントが実際に暮らし、歩き、眠り、笑い、悩み、
人生の頂点を極めて、やがて去っていった家・レンブラントハイス。
昔も今も、世界中からたくさんの人が 彼に会いに来ています。
Museum het Rembrandthuis (The Rembrandt House Museum)
住所: Jodenbreestraat 4
1011 NK Amsterdam, The Netherlands
TEL: +31 (0)20 5200 400
開館時間: 午前10時から午後5時
休館日: 1月1日
くわしくは レンブラントハイス公式サイト をご覧ください
【レンブラントの生まれた町・レイデン 】編 は コチラ